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63.満月

ある夜、帝は寝付けず、おそばで寝ずの番をしている召使に気がつかれないよう、こっそりと寝所を抜け出しました。
この召使、実はたいてい睡魔にまけて途中で眠ってしまうなまけ癖のある男でした。
やれやれ、仕方ないやつだと言いながらも、帝は内心たいへん喜んでいました。自由になれる時を待っていたのです。
まだ十一歳の帝は、学問をするよりも、ひとりで身体をうごかしていることが好きでした。
庭を歩いているとどこからか、ぽぉーん、ぽぉーん、と響く音を聴いたような気がして、かろやかな音の方へと近づいていきました。

裏庭までいくと、この上なく美しい少女が、池の傍で鞠をついていました。
池の水面にはまるい月がぽっかりとうつっていました。
おれてしまいそうな細い腕のなかではねるのは、白銀にきらきら輝く手鞠で、思わず帝はほぅと見惚れ、ため息をつきました。
よくよく聴くと、不思議な数え唄を歌っていました。

月の出るは――いち、鳥の針糸にぃ、それを抜ければ鏡のよぉ―うなさぁん、すべてきらきらしぃ…、お空にはねかえれ――――

「貴方様も、おやりになりますか」
少女が帝の気配に気がついたのか、ふわりとふりむきにこやかに尋ねました。

「鞠つきはしたことがないが、蹴鞠はしたことがある。貸してくれ」
帝は何回も右足、左足へと蹴り上げ、その光景を見て少女は微笑みました。

「御上手ですね。月の満ちる頃、わたくしはまた逢いにきます」

生まれてはじめて帝は人を愛しいとおぼえ、その言葉をしっかり受け取りました。


その次の満月がきた晩でした。

また寝所からでていきますと、約束のとおり、月がうつる池のふちで少女が笑って待っていました。
「帝、帝。鞠をどうぞ蹴り上げて。たかく、たかく、お空のてっぺんまで」
少女が鞠をなげると、帝は靴のつま先できれいに鞠を突き上げました。
「それ、月読」
「月読。それは、わたくしのことにございますか」
「ああ。そなたが名も、生まれも、何もあかしてくれぬから、わたしはそなたを月読とよぶことにした」
「おきれいな名をいただけて嬉しゅうございます」
月読はとても嬉しいといって、口元を袖で隠し、くすくす、と笑いました。
遊んでいるとちゅう、いつも月読は、こつぜんと姿をけしました。
月読がきえたあとは、竹林の爽やかな香が池のあたり一面に広がっているばかりでした。


幾つきもふたりはともに遊んでいましたが、とある日、月読はしんみょうな御顔で言いました。
「わたしは今宵より、帝の姿を御目にかかることができませぬ。帝はこれからしっかり学び、この国をお守りください」
「満月の晩には、かならず来ると約束したではないか月読。わたしの月読」
「わたくしの故郷は、夜空なのです。じき迎えが到着します。わたしはこの地を愛しているので住みたいほどですが、生まれ故郷でおわなければならぬみずからのつとめがあるのです」
「―――それではわたしもそなたの国へいく。そなたとともに、どこまでもいく」
「帝。残念なことに、わたしたちが乗るは造作もなきことにございますが、地上で生を受けた命あるものは、けして乗れぬきまりでございます……。
あなた様が、素晴らしい帝様になった時、きっとわたしはまた来ます。約束いたしましょう」

突然の別れにことばも出ず帝が月読を抱きしめようとした時、満月の方から鈴のなる音がきこえそちらを見上げると、雪色の衣をまとった人々が舞い降り月読を光り輝く牛車に乗せました。
どれほど帝が月読の名を叫んでも、それは空できえてしまい、静寂がつきぬけるだけで、月読は遠い夜空のかなたへ旅立っていくのでした。

幾度もふたりがふれあった鞠が置き忘れたかのように、池のふちに転がっていました。
鞠の下には月読の別れの文がしかれていました。

――月読は、まだこの国のひとが脚をふみいれたこともないほど、遠い場所へ行かなければなりません。
また戻ってくることもできるかもしれない一縷の希望もありますが、しばらくは、来ることができません。
あなた様が成人の儀を迎え、立派にご成長できますよう、遠くから見守っております。
またいつか、ともに鞠遊びをできる日がきますよう望んでおります――


月読を失った帝は約束を忘れないよう来る日も来る日も学問に励み、たくさんの人々を救おうとよい政治を志し、
優秀な臣下とともに海にかこまれたちいさなこの国をつかさどる方になりました。
いつも帝の文机には白銀の手鞠が飾ってありました。


帝が三十の齢に近付いた年のことです。これまでにないような恐ろしい流行り病が都に広まりました。

ひどい高熱がでたあと吐き気と頭痛に襲われ、しだいに視力も衰え、最後には治す手立てもなく死にいたるというものでした。
はじめは庶民のあいだに、やがて貴人の人々も感染し、帝もついに病に倒れました。
熱のある重苦しい身体で、もはや動くこともできませんでした。
寝所で横たわっていても、ほてっている身体のつらさとしだいに視界が暗くなっていく感覚に、思わず獣のような叫びをあげる日々がつづきました。


そして、もう回復の見込みがないと侍医に告げられた満月の晩のこと。
その日の月は、ひときわ美しい銀色に輝いておりました。


"帝"


あまやかに囁く声が耳元できこえ、重い瞼をそっとひらきました。
曇っていた視界が光に洗われたように、その姿をしっかと瞳にうつしだしました。
そばには、あの懐かしい月読が艶然とした笑みをうかべて立っていました。
少女だった姿よりさらに美しい女性に成長しており、妖艶さが輝くばかりにただよっていました。

「月読……」
「帝。わたしの愛しい帝。さぞお苦しかったでしょう。
さあ参りましょう……今ならあなたをお連れできます。
もうあなたと離れることはありません」

月読は帝を生まれたばかりの赤子を抱くようにやわらかく包みました。

あたたかな胸に抱かれると、今までの苦しみが嘘のように身体がらくになりました。
まばゆさを膚で感じそちらを見やると、いつのまにか御所のなかに、昔見た輝く牛車がひかえています。

こんどこそ、おまえといけるのだな、と帝は心穏やかな声で呟かれました。
帝は月読に手をひかれ牛車にのると、ゆっくりと闇の広がる空をめざして地上を離れていきました。



翌日の朝、やすらかな御顔で帝は息絶えており、二度と目覚めることはありませんでした。
横たわりながら愛おしそうに白銀の鞠を両手で抱きしめている姿で、遊び盛りのこどものような無邪気な御顔でございました。