京の都の夜は長い。
とくに夏の夜は身体がとけるかと思うほどの暑さで、どこにいても寝苦しいものだ。
外の風をいれて少しでも涼をとろうと庇をあけるとふいに月光が差し込んだ。
思わず目を矢でいぬかれたようによろけてしまった。
にぶい光の色が想像以上に眩しい。
けれども、今宵の月はなんと怪しい美しさだろうとも思う。
明かりを避けようと軽く身をひねると背後から、だいすきな声でかぐや、と名を呼ばれた。
暗闇のなかの男の表情は見えないが、声の調子からしてもそれほど驚いてはいないだろう。もう何度も忍び込んでいるからだ。
「いつのまにこの寝所にいたんだ、かぐや」
ああ。やはり名を呼ばれるだけで嬉しくて、広くあたたかな腕のなかに飛び込んでしまう。
身体を覆うような白檀の香の香りが心地よい。
けれどもうすぐこの胸の感触も、いつも燻らせているこの香の匂いも、何もかも思い出せなくなる日がくるのだろうか。そう考えたら寂しくてぎゅっと力が入ってしまった。
「おいおい、倒れてしまうよ」
ようやく闇に慣れほのかにうかがえる男の顔はわたしの気持ちなどつゆ知らぬといったように見えて、悲しみが水に落とした一滴の墨のようにじわりと広がり、ついつぶやいた。
「ともにいることがこんなに苦しいなら、出会わなければよかったのに。わたしはどうしても、離れるのはいやよ。いっそすべてから逃げて、ふたりで……」
その先の言葉は聞かずとも想像がつくだろうから口を閉ざした。
思ったとうり、言わなくていい、わかっていると囁かれ、腕が伸びてきて髪にふれてきた。
「お前の髪は、まるで命をもっているようだ。わたしに触られると拒むようにするりと指から抜け出してしまう」
こんなに暑い夜なのに、わたしの髪はいつのまにか夜露に濡れたかのように冷たくなっていた。
「わたしの心をうつしているのね。けれど、拒否しているのはあなたのほうよ。だって、もうすぐあなたはわたしから離れていく。わたしを捨てるのでしょう。この家にずっといたいのに……」
ふ、とまるであざわらうかのような小さな溜息が聞こえた。
「それは無理難題だな。いつまでも二人きりで暮らせるはずがない。わたしはお前の父だからだ。竹藪で幼いおまえを見つけた時から、わたしは父になり、おまえはたったひとりの娘になったんだ。子どもがいなかったわたしたち夫婦の光となってくれた。かわいいかぐや、血は繋がっていなくとも、父である以上は今お前を愛するわけにはいかない。宮中で務めて世の中を広く知っておくほうがおまえのためなのだよ」
「だってお母さまはもういないもの。亡くなってしまってもう何年もたつわ。それなのに。なぜ」
お母さまももちろんわたしの愛する人だった。
いつもわたしに笑いかけてくれて絶え間ない愛情で包んでくれた。
けれど実の親に竹藪で捨てられ、絶望と寒さと飢えでふるえていたわたしを見つけてくれたのは誰でもない、父だ。
父がいなければわたしは今生きてさえいなかった。
だから何度拒まれようとも、この世で一番目の前にいる人を愛しているのだ。
「いいか、何度も言っただろう。世間が許さない」
「いいえ、世間なんて関係ない。わたしは---」
言いかけると、人差し指と薬指が唇の上にそっとのり、言葉をさえぎった。
「月の光のもとで見るおまえが一番美しい」
そう言った父のその眼差しはとても慈愛に溢れていて、わたしの心を締め付けた。
「宮廷に上がっても幸せにな」
ああ、望んでいるのは父親としての愛でなく、男として捧げてくれる愛情だった。
けれど、自分の意志とは裏腹にわたしにはどうしても得られないものだったのだ。
父は亡くなった母だけを今も愛していると痛いほど思い知った。
おそらくこの人はわたしがいなくなっても、生涯二度と結婚はしないつもりなのだろう。
最後に思い切りあまえたくて、腕枕をねだった。
「ここに寝転ぶから、腕をかして。やすらかに眠りたいの。固い木の箱の枕よりずっと寝心地がいいもの」
笑いながら差し出された腕にすとんと顔を並べ横たわり、まるで恋人同士のように囁きあう。
「見て、今宵は素晴らしい満月よ」
「ああ。ふたりでこのまま朝まで月を見ていよう」
「ねえ。愛しているわ。愛しているのよ。お父さま」
望んだ返事はやはりなく、かわりに髪を一筋指に絡ませるとそっとその髪にしずかな口づけをくれた。
今、宮廷では、とある下級役人の父と娘が天をも恐れぬ不埒な関係になっている話で持ちきりだと父の家来から聞いた。私たちの噂が少なからず広まっているらしい。
暇な貴人が吹聴しているのだろう、ご丁寧にからかいにやってくる輩もいるかもしれない。
けれど、わたしは負けない。
わたしは、誰に責められようとも、愛した人に、愛していると告げて後悔はしない。
そして今宵の月を生きている限り、けっして忘れはしないだろう。