61.竹


絵師の男が薄ばかり生えた草原で粗末なあばら屋を建て世を捨てた隠者のようにひとりで暮らしておった。
絵の腕がたいそう素晴らしく、貴族はもちろん天皇からも直々に依頼にくることもあり、筆をとればかなうものはいなかった。
ある日、嫦娥という唐の伝説にでてくる月の女神を描いてほしいという依頼がきた。
それで光輝く衣を纏った見目麗しい女神を想いながら、絵巻物の紙に月の宮殿で暮らす美しい女を描いた。
描き終わり空を見上げると、その日は見事な満月がでていた。
部屋の小窓のある方で乾かそうと巻物を広げ、そのまま寝ようと布団に入りうとうと微睡んでいると、誰かに呼びかけられた。
目を覚ますとえもいれぬ美しい女が笑みをうかべてそばに座っていた。
どこからきたのだと尋ねると、女は巻物を指さし紙からでてきたのだといった。
絵巻物の方を見ると、たしかに絵巻物から女の姿はなくなっており、月の宮殿のみが描かれている。
女は驚く男に頭を下げてこう言った。
「今宵からわたしはあなたと暮らします。なにか手伝えることがあればご遠慮なく申し付けてください」
「それはこちらとしてはかまわないが、ここにはなにもないぞ。絹の衣装も輝く髪飾りもそろえていない。おまえのような女にふさわしくない」
「それでもいいのです。わたしはあなたの手で生まれたので、なにかしてお礼をさしあげたいだけなのです」
女は朝から陽が沈むまでは男の食事を作ったり妻のように世話をし、夜になると絵巻物のなかにもどった。
ただし満月の夜だけは絵巻物の中に戻らず、男と夜を過ごした。
依頼の客には、あの絵は上手く描くことができなかったと断った。

女はある日絵を描いている男に近づくと背後に座りそっととたずねた。
「わたしはあなたの役にたっていますでしょうか」
男は筆の手をとめ女に向き直り、真面目な顔でこたえた。
「役に立つ立たない。そんなことはどうでもよいことだ。わたしのそばにいてくれるだけでいい。おまえのことを誰より愛しく思っている」
男は女を客人のようにいつも大切にした。
昔火事ですべての肉親を亡くしていた男にとって、いつしか女はかけがえのない家族のような存在になっていた。


ある日絵師と暮らしている謎の女に魅せられて、近くに住む男が女の秘密を探りに来た。
庭から男の部屋をうかがっていると、女は絵巻物のなかからあらわれたりでたりしている。
男は美しい女が人間ではないことを知った。
そして男に激しく嫉妬した。

その日夜中に男の家に忍び込むと女が紙のなかにもどっている時にこっそりその絵を盗んだ。
男は自分の家にもどり絵巻物を広げると、恋い焦がれた絵の女にむかって呼びかけた。
「絵からでてきておくれ。おまえの姿を見せてくれ」
けれど女は男がいくら待っても、絵巻物のなかからでてこなかった。
男が懇願する声は聞こえていたけれど、絵師の男以外のいうことを聞こうとは思わなかったからだ。
男はなぜ自分のまえには出てこないのだと叫んで絵巻物を掴み、たいそう怒って誰も近寄らないような深い竹林に行くと絵巻物を燃やしてしまった。
女は叫びをあげながら燃やされたが、紙が煤になるにつれ白いけむりのすがたにかわっていった。

そして空を漂いながらけむりの形で愛する絵師の男のもとへやってきた。
男は女の絵巻物がないので家の外も中も探し、それでも見つからず疲れ果てて寝ているところだった。
「もし、あなた起きてください」
「どこにいってしまったんだ。いったいなぜそんなに儚げなけむりになってしまったのか」
そう聞くと女は悲し気にこれまでおこった出来事をみじかく話し、助けを求めた。
「紙の破片をみつけてください。きっと残っています。そして水に浮かべて満月の光にあててください。そうすればわたしはよみがえります」
「わかった。かならずそうしよう」
「わたしは紙の破片になっても生きています。待っています」
じょじょに失われていく姿の女を男は抱きしめようとしたが、その姿は悲しそうにきえてしまった。

男は女が教えた竹藪にいくと絵巻物を焼いた後がたしかに残っていた。
黒い煤けたものが残っているばかりですべて灰になっているように見えた。
男は周辺を探し風に飛ばされたものもあるかもしれぬと竹林を歩き回った。
夜になってしまい途方に暮れていると奥のほうに何やら金色の光が見え、蛍かと思って近づいた。
すると一本の竹の根元に小指ほどの小さな紙の破片が光っていた。
一日がかりでわずかにのこっている紙をようやく一枚みつけたのだ。

女が知らせてくれた光に違いない、これこそ女の身体の一部だと両手に包み大切に持って帰り、数日後の満月の晩を待った。
満月の日になり水のはいった器にうかべていると、女が月の光のなかからあらわれた。
女は月の不思議な力で本物の人間の女になった。男は笑いながら囁いた。
「不思議な女だな、おまえは。いつもわたしを驚かせ、幸せをあたえてくれる」
「わたしではなく、月の女神のおかげですわ。もう離れることはありません」
二人は抱きしめあい、再会を喜んだ。
そして女を燃やそうとした男に二度と見つからないようあばら屋を出て、新しい家で暮らし、それからも夫婦として仲良く暮らしたということだ。