アメジスト/髪飾り

王子の結婚式当日誰よりも朝早く目覚めた人魚姫は、見上げるほど大きな衣装ダンスを開けました。
数え切れないほど用意されてある色とりどりの衣装の中から、迷わずすっと淡い紫色のドレスを選びました。
何度も袖をとおして着たドレスは沈んだ色で人魚姫の悲しみの気持ちをあらわしているかのようでした。
そして今度は小引き出しを開けると同じ色合いの淡い紫の髪飾りを取り出しました。
髪飾りは人魚姫の気持ちを見通しているかのように小引き出しにしまった時と変わらず美しいままで、思わずためらうようにキスをしました。
紫色に輝く薄い花びらが数十枚ついていて遠目には本物の薔薇と見間違えそうなほど精巧な造形でした。
ともに王子が人魚姫に贈ったものでした。

出会って間もなく経った頃、身分も名前も何もない少女のために、王子は紫色の衣装と髪飾りを特別に作らせました。
「記憶を失ったふりをして王子の寵愛を得ようとしている、怪しく卑しい女」に違いない―ー。
人魚姫の存在をそのように疎む人々がいたため、その気持ちを静めるために王子は本来ならば王族しか見につけることを許されない色のものを贈ることにしました。そして髪飾りは家紋である薔薇の形にしてくれと職人に命じました。
王子は人魚姫を真実の肉親のように感じていたからです。

* * *

人魚姫が王子に連れられて城の庭園で花をはじめて見た時、姫はとても嬉しそうに花に触れて微笑みました。
珊瑚礁よりももっと美しい色と形の世界は人魚姫を驚かせました。
無邪気で無防備に喜ぶ人魚姫が愛しくて、王子はその場でもっとも美しく咲いていたピンクの薔薇を一輪手折ると、人魚姫の髪にさしました。
人魚姫は薔薇の花をまるで長年の友達のように大切に扱いました。
夜ベッドで眠るときも枕の横におき、シルクをかけて優しく撫でながらともに眠りました。

けれどあまりに大切にそばにおきすぎたせいでしょうか。
次の日にはピンクの薔薇は色を失い枯れてしまいました。
王子が姫に会いに来ると人魚姫は悲し気に薔薇を見せて自分の気持ちを伝えました。
いつまでも薔薇を胸に抱き嘆き悲しむ姫に王子は言いました。
「そんなに泣かれるとわたしまで悲しくなってくる。可愛い妹よ、約束しよう。いつか枯れない花を君に贈るよ」
そして王子はその約束通り、三カ月後に人魚姫に鉱石でできた枯れない薔薇を贈りました。

王子は人魚姫を庭園に呼び出しました。
そして青空の下持っていたビロードをゆっくりとめくっていき、この世で最も珍しいであろう紫色の薔薇を取り出しました。

「これは紫水晶でできている。この色は高貴な人間しか身に着けることを許されていないのだ」

そしてそっと髪飾りをまたあの時のように人魚姫の耳の上のあたりにつけてくれました。
「良く似合うよ」
人魚姫の長く美しい髪に、あたかも本物の薔薇が咲いているように見えました。

庭園の花の周りにはたくさんの羽虫が飛んでいました。
そのなかの一匹のアゲハ蝶が二人のそばにやってきて羽を休めるため姫の薔薇にとまりました。
王子は人魚姫の薔薇飾りに羽虫が止まった様子がなんとも美しい、まるで一枚の絵画のようだと思い、目を細めました。
アゲハ蝶はしばらく薔薇にとまってしました。
やがて本物の花ではないとわかると、人魚姫の薔薇から離れあらたな花の蜜を求めて飛び立っていきました。

人魚姫は蝶が去ってしまうのが寂しいと思い、立ち上がってアゲハ蝶を追いかけようとしました。
すると王子は、優しく制し、行かせてあげようと言いました。
「花の命と同じように、蝶の命も短いものなのだ。卵から産まれてから一年と生きられない。わずかな生を奪っては可哀想だ」
人魚姫は王子のいうことを素直に聞いて、飛んでゆく蝶を眺めるだけにしました。

けれどその時本当はぞっとしたものを感じ、背中にひやりと冷たいものがはしっていました。
わずかな生という言葉を耳にして、王子の愛が得られなければきえていく己の身を思い出したからです。
王子が人魚姫の顔色が変わったのを見て心配してたずねましたが、人魚姫はよけいな心配をかけたくなくて、
ただ微笑んでいるだけでした。

その後王子は隣の国の王女に恋をして人魚姫に会いに来ることは少なくなりました。
王子は王女というあたらしい花を見つけその魅力に夢中になり、アゲハ蝶のように人魚姫から去っていってしまったのでした。


* * *

王子ととなりの国の王女の結婚は王子のお気に入りの船のなかで行われることになりました。
巨大な船の上のなかにたくさんの貴族や召使が乗り込みにぎやかな宴会が続いていました。
人魚姫は大きなガラスの器を持ち、結婚式に来た人々に祝杯の葡萄酒を注ぎ続けました。
ひらりひらりと人と人のあいだをすり抜け、優雅に踊るように光輝く美しい小さなグラスのなかを血のように濃い赤紫色の液体で満たしていきます。
「王子の結婚に乾杯!」
人々は口をそろえてそう叫び、楽団の音楽に合わせて楽しそうに踊ったり歌ったりしました。
配っていた葡萄酒がなくなると人魚姫はひっそりと祝いの席を抜け出しました。
皆幸せに酔い、赤い絨毯に滴る人魚姫の涙に気がついた人はいませんでした。

人魚姫は姉たちがくれたナイフを手ににぎりしめ、王子の寝室へ向かいました。
王子は結婚したばかりの美しい新妻と眠っておりました。
王女の肩に身を横たえ、人魚姫には見せたことがない幼い表情をしていました。
愛しい王子の胸にナイフをつきたてようとしましたが、幾度刃を向けようとしても、手が思うように動きませんでした。
王子の幸せそうな寝顔を見ていると、わたしには王子を殺すなんてどうしてもそんなことはできないと悟ったのでした。
王子の額にキスをすると、ふたりの幸せを祈りながらそっと部屋から出ていきました。

人魚姫は甲板で波が揺れる様を見ていました。
あたたかい風が人魚姫の髪をゆらしました。
風で落ちないようにと、右手でひんやりとした髪飾りをそっと抑えました。
愛する人ににもらった薔薇の髪飾りだけは最後まで身につけておきたかったので、どうしてもはずせませんでした。



さよなら王子さま。わたしに愛を教えてくれた方―ー……どうかお幸せに……



王子の命を奪うはずだったナイフを静かに海に落とすと、続いて暗い海に身を投げました。




髪飾りの薔薇はしだいにきえてゆく人魚姫の体から名残惜しそうにはなれ、海の底へ沈んでゆきました。
どこまでも、どこまでも、ゆらゆらたゆたいながら落ちていきます。
途中で大きな鮫が口に入れましたが、すぐにえさではないとわかりはきだしました。
薔薇の花は海のいちばん真下の穏やかな海流のちいさな岩のそばへたどり着きました。
紫色の薔薇は百年たっても三百年たっても海底で美しく咲き続け、人魚の国で人魚姫の愛を永遠に知らしめました。


さて、人魚姫のほうは海の泡となる前にすきとおった精霊になり、紅に染まる空へしずかにのぼっていきました。
300年の寿命のかわりに、永遠に死ぬことのないたましいを手に入れることができたのです。
その身体は人間には見えませんが、人魚とも人間の姿とも違う、神々しいまばゆい姿でした。
それはさながら蛹のなかから透明な羽を出しながらゆっくりと羽化し、蝶が果てしなく空高く羽ばたいていくような姿でございました。



 
石言葉:愛の守護石・真実の愛を守り抜く・心の平和 

淡い紫の薔薇の花言葉:気まぐれな美しさ

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