クリスタル/神殿

人魚の妹は親族である姉から行儀作法を教わる。
その姉も、また上の姉から作法を学んでいる。
「おじぎは、こんな風でいいのかしら」
「そうね、もう少しうつむいていた方がいいかしら。なあ−―なあに、にこにこ笑って」
「ううん。ただ――お姉さまがそばにいるとうれしいの。それだけ」
「わたしもあなたがそばにいると、うれしいわ。その笑顔を見ると心が明るくなるの。
末の人魚姫。作法はもうおしまいにしましょう。さあ自由の時間ですよ。好きなことをなさい」
一番歳の近いお姉さまが屈託ない笑顔で笑いかける。
「お姉さま、きょうは行きたい場所を決めているの。出かけてきます」
「あなたがその瞳をしている時は……また秘密の恋人がいるあそこにいくのね。
言わなくてもわかっているだろうけど、きをつけなさいな」
「お姉さまには何もかもお見通しね。心配しないで。すこし歌の練習に行って来るだけよ。すぐ戻るから、お父さまやおばあちゃまには黙っていてね」
「仕方がないわね、はやく戻るのよ。」
お姉さまはわたしには甘く、最終的にわたしはいつも行きたい場所に行ける。
身だしなみをととのえると、
「ええ、ありがとうお姉さま」
と返事をして、わたしも笑いかける。
きょうはとても和やかな海だったので、すこし城から離れた場所へ泳いでみようと考えた。
目指す場所はわたしたちが人間と仲良く暮らしていたころの痕跡の名残。
光の届かない海のもっとも奥深くに昏々と眠っている。
身体をくねらせながら波の揺れに合わせて泳いでいると、やがて結晶の巨石群が積み重なってできている小都市が見えた。
どのように作られたのか不思議なほど規則的で隙間なくつまれた石の道や壁、透明な階段が続いている。
やがて神聖な扉や神殿が見えてくる。

ここらいったいに控え目に広がる不思議な遺跡群は、アトランティスという栄華を築いた昔の大陸の名残だ。
人魚の一族ではなく、陸に住む人間の建てた何千年もの昔の古い町。
もっとも大きな建物は神殿だけれど、水の流れに少しずつ削られて荒れ果ててしまっていて、崩壊しかけたままなんとか形をとどめたらしい六本の柱がわずかに残っているだけ。
昔ここでよく姉さんたちと遊んでいた。
柱はわたしの姉妹とちょうど同じ数だったので、一本一本にそれぞれの名をつけた。
そしてこの小都市のまわりでおいかけっこやかくれんぼをした。
わたしは隠れるのが下手でいつもすぐ見つかってしまったけれど、姉妹でいっしょにでいるととても楽しかった。
神殿の奥にはここで祀られていた神と思しき男の人間の像が台座に腰かけて座っている。
頭に美しい造詣の装飾品をつけているのでもしかすると――大陸の王族か実在の統治者かもしれない。
わたしの何倍もの背丈で見下ろす巨大な像はとても威圧感に溢れていて均整のとれた美しいしなやかな身体をしている。
けれど、おそらく海に沈むとき破損したのだろう――かわいそうなことに両脚の膝のあたりから下だけ脚はなく、かけてしまっている。
もし二本の脚がそろっていたらどれだけ完璧な姿だっただろうと想像してしまう。
人間の脚は醜いという人魚は多いけれど、わたしは長くのびた脚のかたちはとても美しいものだと思うのだ。



神殿は海上からの光が届かないはずなのに、時おり赤や青のまばゆい何色もの色をはげしくきらめかせた。
それはとても幻想的な光景で、もしかして神殿自体に命が宿っているのではないかと思うこともある。
わたしはこの小都市の由来を幼いころ仲の良かったおじいちゃまから聞いた。
おじいちゃまは血が繋がった本当の祖父ではなく、たまたま海のなかを探索しているときに出会った不思議な魅力に溢れる老人魚だった。
そしておじいちゃまはわたしが小さいころから白髪でおじいちゃまの姿だった。
年老いても隠居などせずその博識ぶりからみんなに頼りにされ、さまざまな物語や伝承を石板に書き留める仕事をしていた。
わたしはおじいちゃまのお話を聞こうと、よく神殿に出かけた。
おじいちゃまは神殿の横の大岩でいつも黙々と物書きをしていた。
人魚の世界がどのように変化しているか歴史の記録をしているそうだ。
わたしは子供らしくおじいちゃまが驚くほどの元気な声で挨拶をするのが常だった。
「ごきげんよう!おじいちゃま、きょうもお仕事忙しい?」
と、おじいちゃまのまわりを泳ぎまわり上目遣いにたずねる。
「忙しいと言えば忙しい。だが、おまえと話すことほど重要なことはないよ。子どもの目線はあたらしい発見を教えてくれるからね」
そう言って書き物をしている手をとめて、大きくのびをしてみせた。
するどく長い貝を左手に持ってその先端でいつも石板に文字を刻んでいるので、指にはたくさんのタコができている。
たまには休むことはないのかしらと不思議に思う。
おじいちゃまは子供の相手をするほど暇ではなく忙しいだろうに――いつも微笑んでわたしの話を聞いてくれた。
「おや、末っ子。きょうはひとりかい。姉さんたちはどこにいったんだね」
「あのね、お姉さまたち貝殻を集めにいっちゃった。いい貝が落ちている穴場を見つけたって騒いでいたわ」
「ううむ、みな年頃の人魚だからな。みんな己にあった貝殻を見につけたいのだろう」
「わたしはまだそんなに胸もないから大きな胸当てもいらないし、髪飾りも今あるものでじゅうぶんだもの。それよりおじいちゃま、何か物語が聞きたい。城の人魚は誰もお話に興味がなくて寂しいわ……人魚のほかには、魚たちしかいないんだもの」
「いいよ。何が聞きたい」
「そうね。アトランティスのお話をまた聞かせて」
「おまえはアトランティスの物語が本当に好きだね。かくいうわたしもその大陸には大変興味をそそられることだが。あそこは間違いなくこの世の楽園だった。水晶の力によって、何でもできる。気候は温暖なので食物は豊富に実り、円形になった運河も整っているから船から世界中の珍しいものも運ばれてくる。動物もたくさん暮らしていた。完璧で素晴らしい環境だった。人も建物もすべてがこの神殿のように光輝いていたんだ。」
「ああ、素敵。わたしも暮らしてみたかった。聞いているだけでこの上ない美しい国がうかんでくるの」
「だが、幸せは永遠には続かなかった。人間はいつしか平和を忘れ戦に没頭していった。欲にまみれ己が好きなことをしだした。権力者が腐敗し、政治は混乱し、女子供は犠牲になってしまったんだ。あまりの振る舞いに天の神の怒りに触れた。大地が大きく揺れてやがて裂け凄まじい洪水がおき、あっという間にみんな海に沈んでしまったんだ」
「みんな死んでしまったなんて――何度聞いてもそこからのお話は胸が苦しい。人間たちはかわいそうだったのね。わたしたちみたいに海のなかでは生きられない。わたしたちがしてあげられることは何にもなかったのかしら」
「ああ、そうだね。何もなかったと思うよ。海に住むすべての人魚の力を集めても沈む土地を止められないはしない。たしかにその頃人魚と人間は手を取り合って生きていたんだ。だがその時ばかりはどうしようもなかったんだ。昔は、人魚と人間はお互いを尊重してした。だが残念なことに人魚との絆を人間は忘れてしまっているがね。一度忘れた記憶はめったなことでは蘇らない」
「今は人間にけっして姿を見られてはいけないっていう掟があるものね。人間はわたしたちの敵っていう人魚もいる。おじいちゃま、アトランティスの頃と今では、そんなに人間は変わってしまったの」
「そうだな――人間はいい方向に変わったのか悪い方向に変わっていったのか、まだ今のところは何ともいえないな。確かなのは、人間はわたしたち人魚よりもずっとしたたかだということだ。あの災害から生き残った人間が子を増やし、またその子たちが子孫を増やしまた新しい文明をひらいた。わしは思うのだが、何度海に沈もうとも、そのたびに彼らは甦るだろう。破壊と再建を繰り返しそのたび逞しく生き延び知恵を身につけていく。けれど、本当のアトランティスがどういう大陸だったのか、どこにあったのか、真実は闇のなかに埋もれ何もかも忘れさられていくのだろうな」
「過去の美しかった栄光を忘れていくなんて、哀しいような気がするわ……。でもおじいちゃまは記憶を人間も忘れてしまったというのに、どうしてそんなに昔のことをよく知っているの」
「時が過ぎても石は覚えているんだよ。ここら一体にも腐るほどある。ほらさわってごらん、わたしたちよりずっと賢く誠実だ。無駄な口がないかわりに、大切なことを守ってくれている。わたしは石とおしゃべりして教えてもらっているだけなんだ。ということは建前で、本当はこの結晶石には、何があったか刻まれているんだよ。わたしのような暇な人魚が書き留めたものなんだろうな」
「まあ、暇だなんて謙遜しないで。記録してくれた人魚は、素晴らしいお仕事をしてくれたのね。だからこうしておじいちゃまとアトランティスのことを話せるんだわ。わたしも昔々のことを石から教えてもらいたい。」
「おまえが知識を吸収する姿を見るのは何よりも嬉しいよ。そのうちわたしではけっして教えられない尊いことを、おまえは見つけ出すような気がする」
「いいえ。わたしは本当に何も知らない人魚だから、おじいちゃまに教えてほしいのよ。もっともっと、知りたいことがいっぱいあって、その気持ちは海の泡のように毎日とめどなくたくさん生まれてくるの。でもそんなにあれこれ聞くものではありません、はしたないって、お姉さまたちに時々叱られるのよ」
「自分で答えを探すのも楽しいものだよ。おまえならきっとできる。だがね末っ子、おまえが可愛いからこれだけは言っておこう――人間に興味を持ちすぎるのはぜったいにやめたほうがいい。わたしたちと人間はけっして交わらない関係になったんだ。知らないほうが幸せであることもあるんだよ。おまえは純粋すぎるのがたまに傷だ」
「ぜったいに――?わたしいつか人間の国に行ってみたいのに」
「これまでも昔人間の国に憧れて飛び出していった人魚がたびたびいた。だが帰ってきたものはほとんど身も心も傷だらけになっていたよ。だから人間の世界におまえが行ったら、姉さんたちがどれだけ悲しむだろう。そんなことはしたくないだろう?」
厳しい忠告を残し、やがておじいちゃまはもっとたくさんの知識を求めて遠い海の彼方へ旅立っていった。
おじいちゃまは二度と戻ってこなかったけれど、今でもどこかでひっそり物書きをしているような気がしている。
おばあちゃま――こちらは本当に血のつながった祖母なのだけど、人間を汚らわしいと断言している厳格なおばあちゃまと同じことを表現は違ってもおじいちゃまは示していたことに最近気が付いた。 柔和なおじいちゃまは人間の味方だと思っていた、それなのに人間にたいする警戒心は人魚の掟とかわらないことを寂しく感じる。


そしてそれから数年がたっても、わたしの輝く神殿は変わらず綺麗な輝きを放っている。
都市は海流によって崩れていき寂れ、とくに神殿の柱は傾き崩れる恐れがあるという理由で、本当はこの神殿へ近寄ることは誰であれ固く禁じられている。
だから今やここを訪れるものは罪を恐れないわたしぐらいしかいないだろう。
でもわたしの心は自由だから、たとえ咎められようともかまわない。
だってそこにいつでも像は待っているから。
誰にも見てもらえないひとりぼっちの像はとても寂しい表情をしているように見えるんですもの。
こんなことを誰かに話すと像が生きているわけでもないのに、と、また笑われるだろう。
腰から上の身体は同じなのに、遠い存在の生き物。
目の前のいたいたしく脚がかけた像を見て、この像もかつて栄華をほこったアトランティスの記憶があるのだろうか――、と考える。
いったいどんな悲惨な人の最後を見たのか。
大陸が一夜にしてまるまる沈むほどの天災。
想像できないほど恐ろしいものだったのだろうと考えると、わたしの身体は知らないうちに震えている。
「人間の国は今と昔で違うのかしらね。こんなに素晴らしい建物を作る人間の知恵ってわたしたちには及びもしない。ねえおじいちゃま。いけないこととわかっていても――やっぱりわたしはいつか海を越えて人間の暮らす様子を見てみたい」
独り言ちながら海水より透明な結晶を見ていると、まだ見たことのない世界が心の中に浮かんでくるような気がした。
瞳を閉じてわたしよりはるかに長生きであろう像のりりしい頬にそっとキスをした。
半開きになった唇からは苦しみの言葉がもれてきそうな錯覚を覚えさせるが、彼は常に静かに遠くを見つめたままだ。
「冷たい頬の方、きょうも何も語らないのね。あなたとはじめて会った時から、ずっとお話したいと思っているのに。」
人間の世界に帰れない像が不憫でいたいたしく、それでいて、この海底にずっといてほしいとも思う。

神殿のなかで囁くように歌を歌う。
ひびきわたる声で石が共鳴し、結晶石が輝く。
歌い終わると尾のほうへころっとどこからか結晶石がころがってきた。
小指ほどの尖った結晶をつまんでみる。
何よりも澄んでいて、高潔で、美しいと思った。
わたしはあれほどおじいちゃまに諭されたというのに、人間の心もきっとこんな風に澄んでいるといまだに夢見るように信じている。

やっと、あと100日足らずで生誕の日だわ―ーわたしのなかでは誕生日が待ち遠しいという想いが日々強くなっている。
15の誕生日は海の上に行ってもよい特別な日だから。
ああ、人間をこの目で見たい。
そしてできれば触れてみたい。
一刻もはやく―――。


わたしの想いは意外なかたちでかなえられ、ついに持ち望んだ15の誕生日に、この像と不思議なほどよく似た人間を助けることになる。
それは今まで生きてきたわたしの世界を崩壊させるほどの運命の出会いになるのだが、この時はまだそのよしを知るはずもなかった。




石言葉:完璧・冷静・神秘的

back