王冠/ダイヤモンド

あなたは知らなかった。自分になんの力もないことを。身分が下である庶民が手にしている、愛する人を妻にする権力さえ持っていない。今までは夕ご飯が遅いために空腹にたえかねて駄々をこねる子に、静まるようにとほんのすこし甘い焼き菓子をあたえていたようなもの。なにか強く望んだものなど今までなかったのに、あなたなりに我慢を重ねていた時もあったのに、あなたは本当に望んだものはけっして手に入らない。手に入らせないよう見張っているものがたくさんいるから。
あなたは、海辺で見つけてきたかわいい娘との婚姻を願った。娘は生まれたばかりの赤子のように何も話すことができない。服も、靴も、言葉も、生きるために必要なものをまったくといっていいほど持っていない人間だった。みなあつかいに困ったが、あなたはいつも娘をレディとして導き、城のなかでも外でも人目をはばからず見つめあっていた。神の前で誓いはせずともいつしか本当の恋人同士になっていたのだが、その関係を言葉にはできないまま、ふたりの気持ちはいつどこにいてもぴったり重なっていった。けれど丸裸で迷い込んできた名もなき女と由緒ある王の息子の結婚を許すものはいなかった。厳しい世を生き抜くために必要なのは正しい血筋。それは当たり前すぎて誰も口にしない王家の誓い。だから希望ともいえる願いに縦に首をふる人はいないのだ。あなたの何倍も生きている大臣も親族も、若き誠実な騎士も日々部屋を整える従順な侍女も、素晴らしい料理を次々と作り出すコック長もひたすら美しく靴を研磨する靴磨きも、だれもかれも。

あなたは愛馬にのって浜辺を散歩中に、気を失って瞳を閉じたままの娘を見つけた。青白い顔に冷たい体で、一刻もはやく介抱しなければと、自ら抱きかかえて連れてきた。3日後ようやく意識が戻った娘は、一見健康な身体をしているのにもかかわらず、なにを問うても押し黙ったままだった。ただし知能は正常で、なんらかのショックで話せなくなっている可能性が高いと、診察した医師はあなたに伝えた。
娘は可憐な蝶のような存在だった。突然城にやってきた、弱って傷ついた羽虫。謎めいたこの世の誰より美しい静かな生き物。娘は誰より素晴らしいダンスを踊った。背中に天使のごとき羽がついているかのような見事な動きに、見るものはみな涙を流さずにいられなかった。ダンスが終わると、いつも感動のあまり割れるような惜しみない拍手が送られる。
娘はいつも赤い靴をはいている。ダンスへの賞賛の陰では、一歩一歩、舞うたび華奢な両足に鋭い痛みがはしる。やけどをしたかのように肌がやぶけることもある。そんな時血がにじんでも誰にも気がつかれないように、赤い靴はかならず足にかさねるのだ。踊れば踊るほど、赤い絨毯の上には赤い靴からいつも血がしたたり落ちている。鮮やかな赤い色にさらに濃い赤い色が滲む。てんてんと血の雫が震えながら絨毯に沈む。ダンスを見逃してなるものかと血眼になっているので広間にいる人間は誰も気がつかない。もっとも娘を愛しく想うあなたさえも。城に来てからいつも娘の足はナイフで切り付けられたように痛んでいるが、それでも誰かに舞を求められれば最後まで娘はダンスをやめなかった。
花畑に飛んでいる蝶を見て人々は心を和ませる。花にとまって蜜を吸う蝶を誰かが見つけてそっと指さす。あそこに蝶がいるわ。ああ、きれいね、と微笑みながらほめたたえる。けれどいったん行ってしまった蝶は誰にも気にされることはない。みんなその後どこへいってしまったのか考えもしないのだ。ひらひら舞い踊るものはまたいなくなってもかわりがくるから。先ほどの蝶が飛んで行っても、またいつか別の羽虫がやってくるだろうと、みんなあてもないのに信じて疑わない。同じ蝶などこの世に2匹といないのに。日々の暮らしの中での小さな、でも不可思議な雑ごとは、やるべき過酷な仕事で手や足を動かすたび空に消えてとけてゆく。

城に娘がやってきたのは花の季節、春だった。やがて花が散り季節が変わったころ、あなたは娘を妹と呼ぶようになった。王の一粒種だったあなたは、頼れる兄弟や守るべき姉妹にずっとあこがれていたから。誰にも言ったことはないが、ともに遊び食事を楽しむ歳のちかい家族がほしいと思っていた。けれどそれだけではない。娘を自分にとってなによりも大切な人にしたくなったからだ。城で一部の者が娘を娼婦、愛人などと呼んでいることを知った時、胸にガラス片がささったかのような痛みを感じた。ならば己は娘をどう呼べばいいか考えた末、妹、というのはどうかと思いついた。そうだ、わが妹とよぶかぎり、みな娘をきちんとうやまい王子と同じように笑顔で対応してくれる。それがたとえたてまえだけの関係であっても、できうるかぎり娘の暮らしをよりよいものにしたかった。妹よ、と呼ぶと、娘はいつでもそばにやってきた。来た時からなにも変わらない純粋な娘。かわいい、愛しいと思う気持ちで胸が苦しいほどだった。
城の後ろには崖があり、その真下には海が広がっている。この住まいは切り立った崖の上にそびえたっているのだ。あなたが妹の部屋に入ると、よく妹は窓から広い海を見つめていることがあった。もしかすると海のちかくに故郷があったのだろうか、とあなたは思う。それならばいっしょにもっと間近まで海を見に行こうかと誘うが、妹は遠慮するように首を横に振る。そしてあなたの瞳だけをじっと見る。その深い青の目が、ここにいさせてください、と訴えかける。あなたは、いくらでもいるがいい、と思う。いや、自分のためにここにいてほしいと感じている。死ぬまでここにとどまればいい、と。
次の日の早朝、まだ薄暗いなかあなたは妹をおいて馬を馳せひとりで海の浜辺に行った。ザザー、ザザー。ザザー。聞きなれている音のはずなのに、ひいてはよせる海の波音がひどく胸をざわつかせる。ずっと前なにかとても大事なことがあったような気がするのに、それを覚えていないことを誰かに責められている、そんな気持ちになる。馬から下り無造作に砂浜に寝転び四肢をのばした。ひんやりとした砂が心地よくてさらに腕をぐっとのばした。すると左手がなにかとがったものに触れた。固く冷たい。ちくちくしたものがついている。思わず体を起こし指先で拾い上げてみる。珍しい形の薄茶色の巻貝だった。穴もあいていないし割れてもいない。こんなにきれいな状態の貝殻も珍しかったので、妹への土産にしようと城に帰ってから手渡した。妹は巻貝におそるおそるふれた。そしてそっと耳元にあててみる。目を閉じうっとりと音を楽しんでいる。懐かしい音が聞こえたのだろうか。声がでない口で、なにか囁いたようにも見えた。しばらく妹はそのままゆったりと貝殻をにぎりしめ、やがてどこかで海鳥が遠く鳴いたとき、王子を見つめながら微笑みを浮かべた。そんなかわいらしい姿を見るたび、あなたは言わなければいけないことを言えなくなってしまう。隣の国の王女と婚儀をあげなければならなくなったことを。もうすぐ花嫁衣裳を携え王女がやってくる。愛しているのはこの妹だけ、もはや胸に真実の愛がめばえているというのに。



隣の国の王女との結婚式の日。あなたは銀とダイヤで作られた美しい王冠を頭上にいただく。
王子の祖父の代から受けつがれた王冠。123個のダイヤが連ねられている、この国で最高の価値があるきらめく王冠。
それは権力の象徴であり、王のみがかぶることを許される。あなたも今までは触れることは許されておらず、ようやくはじめて接触を許された宝飾品。実はそれは大勢の民の涙から成り立っている。きょうのパンさえない庶民でも、王族のために税を振り絞らねばならない。人々の涙から吸い上げた金貨は国に献上され、極上の王冠へと変化したのだ。
あなたの頭上にのせられたのは、宝石の重みだけではない。国の王となる責任の重みだ。それゆえこれからは王冠は朝も夜も身に着けていることが強要される。いいですか、睡眠の時でさえ身に着けていてください。臣下がいくつもの銀の金具で王冠を髪に固定しながら囁く。これで王冠は多少のことでは外れはしない。隣であなたを見つめる王女の瞳は王冠のダイヤより輝いて濡れていた。あなたはそっとベールをめくり后となる女性とキスをした。その瞬間、おおくの廷臣から歓声がわいた。永遠にも感じられた冷たい口づけの時が終わる。顔をそっとあげる。その瞬間部屋のすみでこちらを見つめる妹があなたの目に映る。もう歓声も耳に入らない。あなたは息苦しさで窒息してしまいそうな心地がした。

あなたの重苦しい婚儀が終わり、関係者はみな祝いの船にのりこんだ。あなたも、妃も。そしていちばん最後に妹も。王と王妃のためにしつらえられた寝所で妃と眠っていたあなたは突然目覚めた。なにかが頬を伝って流れている。一粒唇に流れてはいっていった。しょっぱい、ということは海水だろうか。けれどそれは海水ではない。あなたに口づけしていた時に落ちた、妹の涙。まるであなた自身の涙であるかのように、こんどはあなたの反対側の頬を流れていく。妹と目があう。月の光のようにすんだ、優しい瞳。妹の心が聞こえる。もう行かなければなりませんと。妹が軽やかに走り出す。あなたは追いかける。妹のあとを追う。だが思うように早く走れない。ひどく頭が重い気がする。これは、ああ。頭上の王冠のせいだ。こちらを振り向かない妹に声をかけなければ、と思う前に、妹が船から落ちていく。そして気がつくと自身も船から身を投げていた。海のなか手をのばして、妹はあなたを抱きしめる。
妹の柔らかい長い髪があなたの体をおおうようにからみつく。もっとそばに、妹を逃がすまいと指に力をこめた瞬間、妹の体が無数の泡になっていく。真珠の粒のような小さな美しい泡。驚いて妹を見つめると本人はもうそのことをわかっており運命を受け止めている顔のように見えた。それどころかいつものように朗らかに笑っているではないか。消えゆく娘を腕に感じながらあなたは目を閉じた。妹が泡となり消えゆくならば、己の体も泡になってとけてしまえばいい。私たちは死ぬまで一心同体だ。そうだ、死したあとは海となり交じり合い、もう永遠に離れることはない。あなたは深い暗黒の海の底へゆっくり落ちていった。光輝くダイヤがちりばめられた王冠とともに。