天秤

天秤



人間の王子に恋をした人魚姫は、人間になりたいと願うようになり、魔法の力を持っている人魚の魔女のところに行きました。

そして下半身を人間の脚にかえることができる魔法の薬をくださいとたのみました。

魔女は人魚姫をあざ笑うかのように言いました。

「はっ、恋をすると愚かになるものだね。

平和な海の暮らしを捨ててまで恋しい人間のもとに行きたいなんて、わたしにはとうてい理解できないね。

あそこがどんなところか想像もしたことがないだろう。

たとえ誰かと愛し合っても、すぐに心変わりして裏切るのが人間さ。

それにわたしたち人魚は成人した容姿のままほとんど変わらず歳をとるが、人間は腰が曲がり頭は白髪になり老いていく。

その姿は、わたしたち人魚より醜いものだ…」

しかし魔女は不安そうな眼差しで目の前にいるたぐいまれな人魚姫の美しい容貌を見つめて、

この娘ならば愛される可能性もなきにあらずと思いなおしました。

岩の作業台を見渡し、すぐに振り返り人魚姫に冷やかな一瞥を向けました。

「そこで待っておいで」

やがて人魚姫の前に珊瑚でできた天秤を持ってきました。

天秤にはものをのせる皿代わりに、片割れになった貝殻が左右にふたつついていました。

魔女は、人魚姫のかたちをした人形をどこからか取り出すと、

人魚姫に見せつけるように、左の貝殻におきました。

それは流木でできているとてもかるい人形だったので、右側の貝殻があいていても、バランスはかわらずほとんどゆれません。

今度はもう片方の右の貝殻に、美しい人間の脚になれる魔法薬の瓶をおきました。

すると、薬の瓶ががくん、とかたむき、テーブルの上に貝殻がつきました。

「いいのかい。この秤のような不平等な取引になる。

あんたは人間の脚とひきかえに、それとは比べ物にならないほど、おおきな、おおきな代償を支払うことになるんだよ。

このちいさな人形よりもはるかに重い薬瓶のようにね」

「はい、かまいません。わたしのもつものすべてを失っても、わたしは王子様とともにいたいのです。

あの方に逢えなければ、わたしはこの先ずっと、死んだように生きていかなければなりません」


魔女は人魚姫のかたい決意を知っていいました。

「そこまで王子を愛しているならば、おまえに薬をやるとしよう。

だが、今から言うことをよく聞きなさい。

まずひとつ。

王子がおまえのことを愛さなければ、おまえの身体は海の泡となり、そのまま命はきえ失せる。

ふたつ。

脚がはえて人間と同じ暮らしをすることもできるようになる。

だが歩くたびに、脚にナイフがささるように激しい痛みがつきまとうだろう。

みっつ。

薬の報酬として、おまえのその美しい声をいただく。

地上に行っても、王子に話しかけることも、歌いかけることもできないのだ。

それにかんしても異存はないかね」

「かまいません。どうぞ魔女のおばあ様のお気に召すままにしてください」

返事を聞いた魔女は長い爪のはえた指先で左の貝殻にのっている人形をさっと持ち上げると、

かわりとしてそこに人間の少女の人形をおきました。

同時に魔法の薬瓶を右の貝殻からつまみ上げ、人魚姫に渡しました。

こうして取引は成立して、人魚姫は魔法の薬をもらいました。



嬉しそうにはにかんで人魚姫は海の上にむかって泳いでいきました。

その姿をまぶしそうに見ながら、魔女は海藻のなかに隠している小引き出しから、

特別に育て上げ作った美しい真珠を3つ取り出しました。


「この真珠を生み出すには、1つ100年の時がかかる。

こんなに小さいのに、まったく、手間暇のかかることだね。

この真珠3つ分が人魚の寿命だというに。

あの娘は、人間よりはるかに長い寿命を、泡のように散らせることになるかもしれない。

命を大切になど諌めても、年寄りのたわごと、今のあの娘にはわからないだろうね」


ふたたび天秤に向かうと、薬瓶がのっていたほうの貝殻に、真珠を1つ1つゆっくりおきました。

すると3つの真珠の重さによって天秤はさいしょ左右にすこしゆれましたが、

やがて重量は人形とつりあっているらしく、少しずつ平行になりながら、しずかにとまりました。

300年の時で生まれた真珠と人形の少女がのせられた天秤を、魔女はそれからしばらく片づけることもありませんでした。

それはふだんつりあったままですが、海底に波が来るたびゆっくりとなだらかにゆれていました。




あるときとつぜん、波もないのに少女の人形が天秤の貝殻からゆらりと落ちました。

魔女はその様子をを見た瞬間、可愛らしいあの人魚姫が恋叶わず、

想像したとおり海の泡になってしまったのだとわかりました。

「やはり、人魚が人間になろうとしても、それは運命にさからうこと、心ばかりはどうしようもない。

海の城で、大切に守られて生きるすべもあっただろうに――」

落ちた人形を拾って、小箱として愛用している貝のひとつを持ってきました。

「貝よ、口をあけよ。愚かな人魚の姫のひとがたを永遠におさめてほしい」

閉じていた貝がひらくと、少女の人形を入れ、そして無造作に1つの真珠も入れました。

それを小引き出しにしまうと、何事もなかったように、また魔法の薬の調合にとりかかりはじめました。


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