宝石箱/エメラルド




妹たちは来賓用に海葡萄で冠や首飾りやブーケを作るのに追われており今日はわたしの部屋にはこないらしい。
ぐるりと一周泳いで見渡してみるとなんて殺風景な部屋だろうか。
お気に入りの滑らかな岩のベッドも何重にも敷き詰められた海藻の絨毯もない。
日々愛用しているものはほとんど持ち出されわずかな宝飾品ばかりがいくつか残された場所は、もはや自分の居場所がないことを示している。
部屋の隅に残された金色の宝石箱を持ちあげて指先で螺子を回してみる。
螺子は固く回すまではとても無理で、わずかに傾いただけ。やはり鳴らないのだとあきらめて繊細な作りの宝石箱を下した。
四本の華奢な脚がついており、蓋の中心には六角形の濃い緑の宝石がはめこまれている。
内蔵された音楽が流れる仕組みがついていて、金属の螺子をまわすたび綺麗な音が流れてきた。
けれど海底では人間の世界の細工は海水に侵されてしまい決して長持ちはしない。
現にとうに螺子周りは錆びついて音楽は鳴らず機能しない。
でも目を閉じればわたしの耳には思い出の音楽が聞こえてくる。
あのかわいい末の人魚姫の声と、生まれたばかりの海の泡の音、この宝石箱からあふれ出る音が三重奏となり、人魚の姉妹みんなで暮らしていたあの頃が胸に迫ってくる。
わたしは声を懐かしみながらあの子の形見となった宝石箱をながめ、きっとこれからもため息をつくのだろう。


「お姉さま。お部屋に入ってもいいかしら」
「ええ、だいじょうぶよ。お入りなさいな」
「あのね、渡したいものがあって……。少し早くて申し訳ないけれど、お誕生日おめでとう。とっても素敵なものよ」
人魚姫はもうすぐ誕生日を迎えるわたしに、突然はやめに祝いを贈ってくれた。
「お姉さまと髪の色と同じ、澄んだ緑色が綺麗でしょう。見つけた時お姉さまにあげようって思ったの。お姉さまは誰より髪がゆたかできれいですもの」
屈託なく価値のある宝飾品を手渡し喜ぶ姿を見て、この子は自分より人の幸せを考えることができるから誰より幸せな結婚をするだろうと思った。
素晴らしい箱は末の人魚姫のほうにこそよく似合ったが、喜ばないとこの子が傷つくと思いささやかにお礼を言った。
「まあ、綺麗な宝石箱。どうもありがとう。本当に素敵ね。でも、こんな立派な宝石がついたもの人魚では作れないでしょう、どうしたの」
「みんなで昔遊んでいた薄紅色の珊瑚礁のあたりにあったのよ。ほら、この前の嵐の晩海が荒れていたでしょう。海上に大きな船が停泊していたのよ。この箱はまだ真新しいし、あの時きっと船から落ちたのだと思うわ」
「思い出したわ。ええ、とてもひどい嵐だったこと。あなたの十六の誕生日だったわね。せっかくのおめでたい夜だったのに、朝になったら数え切れないほど人間の亡骸まで浮かんでいていたたまれなかったわ」
「でも、わたしあの嵐の夜とても素晴らしいことを知ったわ。今でも思うの。あの夜が誕生日で本当によかった……!」
「そう。素敵な経験をしてきたのね。わたしもはじめて海の上を見た時のことは昨日のように胸にきざんでいるの。人間はわたしたちととても似ていて驚いたわ」
「人間は二本の脚を持っていて美しい姿をしているわ。きっと人間の世界もこの宝石のように美しいのでしょうね。お姉さま、宝石箱を見たら時々でいいから、わたしを思い出してね」
あどけない微笑みで見つめられると、姉妹であるにもかかわらず心が高揚していまう。
末の娘として親にも姉にも甘やかされて育ったせいか、この人魚姫はほかの人魚姫にくらべていつまでも幼いままに見える。
かく言うわたしでさえ、どの妹より歳の離れている末のこの妹が一番可愛いと思うのだ。
「まあ、何を言っているの。もちろんそうするに決まっているわ。ありがとう。でもね、こういう特別なものはね、見つけたら結婚するまで誰にも見せずしまっておくのよ。
愛する人から大切な贈り物をもらったら入れておいて、そしていつか自分の子が生まれたら、その子に譲って引き継いでいくものなの」
すると人魚姫はきゅうに寂しそうに笑った。
「それじゃあ、お姉さまに子が生まれたらその子にそうしてあげて。わたしは結婚はしないの」
最近うわの空で夜な夜なでかけていくので、てっきり好きな人魚がいると思っていたので思わず問い返した。
「あら、好きな人がいないの?」
その瞬間、人魚姫の瞳はこれまでにないほど輝きわたしの顔を見つめてきた。
今思えば、とうに王子のために人間の住む世界に行くことをひとりで決めていたのだろう。
両手を組み少し恥ずかしそうに告げる様子は初恋であることをうかがわせる。
「好きな人はいるけれど、とっても遠い場所にいるから、今のわたしでは愛を伝えることが難しいの……」
嬉しいような、寂しいような複雑な心になりながらその恋の成就を祈った。
「その人と結ばれればいいわね、きっとあなたなら深く愛されるでしょう」
「わたしのことはいいの。それよりお姉さま、もうすぐ結婚ね。どうか幸せになって」
そう、わたしは結婚を控えていて、婚礼の準備を揃えれば揃えるほど気持ちがざわめいているようでなぜか落ち着かなかった。
人魚のなかでもっとも大きな海を支配する王子に嫁ぐと定められ覚悟もしていたが、本当は顔も見たことのない相手との婚儀が億劫で仕方がなかった。
逃げることのできない心細さに末の人魚姫だけは気がついてくれていたのだ。
「いろいろ考えてしまうこともあるかもしれないけれど、この音を聞いたらきっと心が落ち着くわ。音が流れる不思議な細工がついているの」

そう言って人魚姫は宝石箱の後ろにある螺子を回してくれた。
海の流れにとけるように音楽が流れると音に合わせて透明な歌声で歌ってくれた。
身体をつきぬけ心の奥まで届くような、人魚の誰よりも穢れない美しい歌声だった。
この声を聞いたものは、永久にこの子を忘れることはできないだろう。
王子がもし人魚姫の歌声をほんの少しでも耳にしていれば―ー。
別世界へ誘うような声によって王子はあの子の虜になってしまい、けっして隣の国の王女を愛することはなかった。
わたしはそう確信している。

その直後に末の人魚姫の失踪と五人の姉妹の人魚姫の髪の消失という二つの出来事により、話し合いがおこなわれわたしの結婚は延ばされた。


しばらくして、恥ずかしいことにうなじまでしかない長さの髪のわたしに、夫となるべき人魚は護衛もつけず会いに来た。
末の人魚姫のすべては他の人魚の王族に漏れないよう隠されたので深い事情は知らないだろうけれど、痛々しい何かが起こったことを察してくれて何も聞かず、これからはずっとあなたを支えていきたいとだけ優しく述べてくれた。
その時だった。肩から力が抜けて、ああ、もっと早くわたしから会いに行けばよかったのだと気づいた。
恐れているばかりであった臆病な自分を恥じ、今まで悩んできたことがまるで嘘のように、わたしは死が二人を分かつまで彼と生きていく決心ができた。
皮肉にもあの子が海の泡になったことによりわたしは己の気持ちを見つめることができ、結婚の前にはじめて異性を愛しいと思うことができたのだ。
嫁げるほどに髪が伸びるまで五年という年月が過ぎた。
今、宝石箱の中には貝殻を削って作られた艶やかな指輪が入っている。
人魚のあいだで交わされる正式な婚約の証だ。
合わさった二枚の貝殻で一つになる貝のように、夫婦がともにいつまでもあるようにという昔ながらの教えが込められている。

でも、幸せに満たされながらも、後ろめたさが募るように時々思うことがある――指輪より、宝石箱のなかにあの子の声を閉じ込めておければよかったのに。
しっかり蓋を閉め鍵をして、好きな時にいつまでも聞いていることができればいいのに。
魔女は人間になれる薬と引き換えにあの子の声を手に入れて、いったいどのように愛でているのだろう。
わたしは短剣と引き換えに魔女に髪を手渡したけれど、またゆっくりと髪は長く伸び、やがて尾鰭の長さにまで戻った。
ふたたびこの髪と引き換えにあの子の声を取り戻せたら……。
−−ああ、わたしはなにを考えているのだろう。もうあの子はいないのに。
声だけ戻ってきても、あの子の肉体という器がなければどうしようもない。
むしろ姿がないぶん、よけい寂しさがつのるだけだろう。

末っ子の人魚姫。あなたの歌声を婚儀の儀式で夫に聞かせたかった。
片手の指で数えられる日を過ぎれば、対になった指輪をはめて他国に嫁いでいかなければならない。
わたしは夫の城に住むことが決まっており、長年住みなれたこの城に別れを告げる。
それまではもう少し、こうして鳴らない宝石箱をあの子のかわりに愛しんで触れていたい。
緑色の宝石は多少波の力で削られたのか六角形から丸型に変化しつつあるが、輝きだけは不思議なほど色褪せていないように見えた。
もし声という姿なきものが目に見える存在であるならば、きっとあの子の声はこの宝石よりも眩しいほどに光輝いていただろう。


あの子の美しい声を想いながらわたしは宝石箱をそっとあけては閉じる。
そして、また開ける。閉じる。
開けて、閉じて、また開けて……。


石言葉:清麗・夫婦愛・永遠・新たな始まり
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