花の海の人魚姫


   むかしむかし、ずうっとむかし。まだ不思議な生き物や魔法がありふれていた時代のことです。人間が暮らす陸地から遠くはなれた矢車菊のように青く深い海の底に、人魚たちが暮らす人魚の国がありました。ここはとても豊かな恵みのある場所で、人魚とイルカ、クジラやカニ、数え切れないほどの種類の魚たちとともに仲良く暮らしていました。
  けれど時たま、この平和な場所に目をつけてみさかいなく生き物をとらえようと漁をする傲慢で乱暴な人間たちがやってきました。お城に住む歌のいちばん上手な人魚姫は、生まれた時から人間たちを監視して罰する役目を負っていました。人間たちが調子にのってあまり激しく魚を取り続けると人魚姫は海から出て岩場に腰かけ、男たちに微笑みながら手招きして誰もが我を忘れるうっとりするようなすばらしい声で歌を歌いました。

    こんにちは。人間の方々、どうぞこちらへいらっしゃい。     
     貝殻でおおわれた屋根に白亜の壁、真珠が飾られた窓のついた見事なお城をご覧になりませんか。
        甘い時が流れるそれはそれは自由ですばらしい場所ですよ。働く必要なんてありません。
           だって王国には望むものすべてがそろっているのです。
            さあゆったりと疲れた手をやすめて、色とりどりの海のなかで息をつく間もないほど愉快な魚たちのダンスを楽しみましょう。 

  「ああ、なんて美しい方なんだろう!待っていてください!今すぐそちらに行きます!!」
  男たちはその声を聞くと人魚姫にふれたくてたまらない気持ちをおさえきれなくなりいてもたってもいられず、みな海に身を投げ出しました。するといきなり身体の上に大きな石が落ちてきたかのように指一本動かせなくなりずぶりと海に入った瞬間動きを止めます。
  「手足が重い…!なぜだ…?!」
  泳ぎの上手なものばかりなのに、姫の歌声を聞くと力が抜けて腕が動かなくなってしまうのです。そしていつも誰1人助からず溺れて死んでしまうのです。人魚姫はごめんなさいとつぶやき祈りを捧げます。そしていつもそのあとは、もはや陸に戻れないあわれな人間たちのために先ほどよりもっと美しい歌声でレクイエムを歌うのでした。人魚姫はこの役目からうけたまわった日から己が死ぬまでやりとげようと決めていました。人間たちを追い払わないと人魚の国の存在を知られてしまい、住んでいるすべての人魚たちの身に危険がおよぶかもしれないからです。
  人魚姫の瞳は海の水よりもきよらかに澄んでいて、深い緑の色にきらめいていました。愛らしい唇はうす紅色で桜貝のようです。肌は貝殻から取り出したばかりの真珠のように瑕ひとつなくなめらかで乳白色に光輝いています。そしてたっぷりした豊かな髪の毛はいつもふわふわと柔らかく波打ち、人魚の娘の誰よりもきれいな姿をしていました。けれどその髪は、不思議なことに生まれた時から真っ白な色をしておりました。今まで普通人魚の髪はみな赤や緑、橙、紫と、熱帯魚のように派手で鮮やかな色をしております。髪の色がより鮮やかでより濃いほど、人魚として美しい魅力があるとされていました。わたしたち人間と同じように、人魚も白髪は年老いてからなるものなのです。人魚姫の母は人魚姫と同じように緑色の瞳をしていましたが、髪の毛は地平線に沈む夕日のような茜色で、実は人魚姫の母でさえ娘の髪の色を見た時驚きました。だから何も色のついていない白い髪の人魚姫を見たほかの人魚たちは、いまだかってない恐怖を感じずにいられませんでした。
  人魚姫の母は人魚姫と同じように緑色の瞳をしていましたが、髪の毛は地平線に沈む夕日のような茜色で、じつは生まれたばかりの我が子を見た時母でさえ驚きました。
    (わたしのかわいい赤ちゃん、どうして白い髪の色をしているの?)けれどどんな髪をしていようとも赤子は血を分けた愛しい我が子に変わりなかったので、母親は人魚姫をかわいさのあまり抱きしめました。しかしまわりの人魚たちは母と子をほおっておいてはくれませんでした。
    「みなさん、まあごらんなさい!この人魚の子は産まれたばかりなのに、老人魚のように白髪だ!なんと不気味なこと。死を待つばかりの人魚のようだね」いとけない人魚の赤子を見て誰もがそう叫びました。
  人魚姫には12人の姉がおり、王の娘としてお城で生まれた13番目の人魚姫でした。彼女たちもやはり白い髪の姉妹を受け入れようとはしませんでした。一目見るとみんな顔を醜くゆがめて軽蔑の表情を浮かべました。
  「まあ、見て。あの人魚の子。噂のとおり、本当に白い髪をしているわ。わたしたちと血がつながっているなんて、ああ汚らわしい。わたしたちのような赤や青の髪とは天と地の違いがあるわ。まったく変な人魚ね!」といって人魚姫を冷たい視線で見つめました。
  しかも姉たちの母親は正妃で、人魚姫の母親と違う方でした。この姫の母親はとても身分の低い方で、またちょっとした魔法を使うことができたため、こっそりと魔女と呼ぶ人魚もおりました。ある時沈没船からたくさんの金貨が見つかり、その金で姉さんたちはおそろいで冠を作ることにしました。人魚でもっとも腕の良いと評判の高い細工師が指名され姉さんたちの12個の冠を完成させました。みんな満足そうにその金の冠をいつもかぶっておりました。けれど白髪の人魚姫だけはその冠をもらえませんでした。人魚姫はたとえお城で人魚たちの舞踏会がひらかれても身を飾るものをつけることはなく、姉さんたちのように新しい宝飾品を見せびらかす遊びにもくわわりませんでした。人魚姫は自分が本当に欲しいものをわかっており、それはきらびやかな宝飾品のようなものではなかったからです。
  人魚姫は冠のかわりに沈没船からただひとつ、人間の男が描かれた絵画をもらいました。その絵は油絵の肖像画で、贅を尽くして作られた豪華な金の額縁と分厚いおおいガラスでがんじょうに守られていました。大きく中心に描かれていたのはととのった顔立ちをした薄茶色の髪の人間の青年でした。猫脚椅子にゆったりと腰かけその表情は天使のようにほがらかに微笑んでいたので、人魚姫はまるで本当に生きている人間が目の前で微笑んでくれているような気がしたのです。絵は部屋の窓のとなりに大切に飾ってあり、人魚姫は時々ガラス越しに青年にキスをするのでした。
  守護の役目は自ら望んだことではないのに『死を歌う人魚姫』として幼い頃から蔑まれて人魚姫はたいそう寂しい思いをかかえて生きていました。たったひとり頼りになるばずの母親は人魚姫が13歳の時失踪していました。人魚の王、つまり人魚姫の父親に頼まれて薬を調合していましたが、突然大声をあげたのでひとでと遊んでいた人魚姫は驚いて母親のほうをふりむきました。
 「あら大変。なんていうこと、治療薬に入れるヒドラの血がほんのすこし足りなかったわ。これでは薬が作れない。ヒドラから血をもらいに行ってくるわね」と言い残してそれきり戻ってこないままです。おそらくヒドラが住む深海の中はたいへん危険な場所なので何かが起こり死んでしまったのでしょうが、確かめるすべもありません。人魚でもっとも身分が高く南の海の支配者で王である父は、母が姿をけしてから娘である人魚姫を遠ざけるようになっていました。人魚のお姉さんたちはこういって妹をからかいました。「母を見失い、王の寵愛さえも失って、ああ、あんてみじめな死を歌う人魚姫!」実は姉さんたちは末の人魚姫だけいつでも特別に海の上を見ることを許されていたのでうらやましかったのです。孤独のなか人魚姫はただ物思いに沈んで海の上を見上げるばかりでした。

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  きょうも見張り番の役目を終え海のなかへ戻ると、人魚たちは誰もきてはくれませんがかわりに小さな魚たち出迎えてくれました。小魚たちは人魚姫がすきでいつもかまってもらいたがるのです。人魚姫は一匹づつやさしく撫でてあげてゆったりと戯れていました。
  するととつぜん海の上から人魚姫の耳にドーンドーンと、耳の奥までとどく雷のような大きな音がきこえてきました。波間をぬってすぐ海の上まで泳いでいくと、空高く赤や青や紫の光があがっていました。それは豪華絢爛な船の上で打ち上げられている花火で、ちょうど王子の誕生日を祝って華やかな宴がひらかれているところだったのです。
  (まあ、人間の暮らしはなんて優雅なのかしら。わたしもあそこに行ってみたい)と人魚姫が船上の光景に見とれていると、楽しそうな船に向かって何かが近づいてきました。不安を胸に感じながら見守っているとまがまがしいほど大きな黒い船が姿をあらわしました。ようやくあれはなんだと船の人々が騒ぎ出したころ、目の前にせまった海賊たちが何十人も不敵な笑みを浮かべて雄たけびをあげました。海賊たちは武器を持ってあっという間に王子の船に飛び乗ってたかと思うとたちまち剣や火のついた弓矢を使って攻撃してきます。矢がはなたれるたびに赤い炎がめらめらと船のあちこちで燃えています。船内をみなが逃げ惑い、やがて力尽いたものから悲しみの叫び声が響き渡りました。
  そんななか船べりで剣を向けられている男に人魚姫は目をとめました。恐ろしい大男にまだ年若い王子が襲われているところでした。驚いたことに王子のなんと絵の青年に似ていること、絵から抜け出たのではないかと思うほどでした。海賊が剣を振り下ろし王子がよけようとしたとき、バランスをくずして王子の身体が船から離れ海のなかに投げ出されました。ぼうぼうと火のついた船の木板とともに、王子が海へ落ちてきました。
  王子の身体はその木板にあたってしまい、あっと肌を焼くような痛みを感じ声をあげました。そして海のなかに落ちて、一瞬沈みまた浮き上がってきました。王子はもがきましたが、海水を吸った王子の洋服はすぐにずっしりと重くなり、もがけばもがくほど王子は黒い海へ引きずりこまれていきます。
  人魚姫ははやく助けなければと考え溺れそうになっている王子のもとへたどり着き、手をのばすと胸のなかに抱きしめました。
  王子は海賊の襲撃と冷たい海に投げ出されたショックで、目はうつろで茫然としていました。けれど空を見上げているうちに我にかえったのかすぐ褐色の睫毛がパチパチと上下に瞬きました。
  「……ここは海なのか?それとも地獄か?」
  誰に聞くというよりまるで独り言のように王子がぽつりとつぶやきました。
  「ええ、海ですわ。しっかりしてください」
  人魚姫の声が海に響き、ようやく王子の瞳が人魚姫をとらえました。
  「きみはだれ?」
  人魚姫は自分のことを話していいのかわからずこういいました。
  「わたしはあなたを助けたかっただけなのです」
  その時、海賊のひとりが浮かんでいる王子の姿をみとめ仲間にむかってさけびました。
  「おい!海のなかに生き残りがいるぞ!!あいつを殺せ!!!」
  すると海賊の仲間が大きな弓をかまえ、王子の背中に矢を放ちました。するどい矢じりは心臓に近いところをつらぬき、王子はぐったりとして目を閉じました。人魚姫は急いで背中に深く突き刺さった矢を引き抜き、今にも息絶えそうな王子にキスをして、自らの命をわけあたえました。
  「海の女神よ。どうかこの人をお救いください。この方はなにも悪いことをしていません!どうかご慈悲を!!!」
  この人魚姫は歌声と同じように生まれた時から別の不思議な力も持っていて、怪我をした生き物に口づけると、一時的に身体が回復するのです。そして、陸のものでも人魚の身体と同じように水のなかでも生きられることができるのです。過去に傷ついた鳥を何度か助けたことがありましたが、人間のために力を使うことははじめてでした。けれどそれは人魚の寿命ほど長いものではなくサラサラと時が流れる砂時計のように短い時間のさだめられたもので、またもとの呼吸をするため身体の仕組みは3日間で戻ってしまうという儚い魔法でした。

  人魚姫は傷を負って息もたえだえの王子を胸に抱き、いそいで城の奥にわずかに生えている薬草の庭園にむかいました。そこは本来人魚の王族だけが許されている場所でなので人魚姫は誰にも見つからないようこっそり身をひそめて入りました。即効性のある3種類の薬草を摘み、幼い頃から人魚姫だけが知っている秘密の小さな洞穴に王子を連れていきました。洞穴でその薬草を混ぜてあっというまに塗り薬を作ると、血がしたたっている背中に指先でそっと何度もぬりました。薬草の効果はたちまち効き目をあらわし、王子の傷は見る間もなくふさがっていきました。意識を取り戻した王子は人魚姫のことがすぐすきになりました。
 「わたしはきみのおかげで生きているんだ。かわいい人魚の姫、ありがとう。きみはやさしい心の持ち主だね」
  人魚姫は"やさしい"という言葉をかけてもらえたことは生まれてから一度もありませんでした。自分でもそう思ったことはありませんでした。
 「いいえ、王子さま。わたしは―ーー」"そんな心など持ってはいないのです。わたしは残酷な人魚で今まで数え切れない多くの人間の命を殺めてきたのです。”人魚姫はそういいたかったのですがまっすぐな眼差しで見つめてくる王子にどうしても本当のことがいえませんでした。
  王子は悲し気に黙ってしまった人魚姫を見て何か事情があることを察し、かわりに人間の暮らしを話しました。人魚姫は王子の話を聞くがわで王子はほとんど話をするほうでしたが、おたがいとても楽しく心ゆくまで語り合いました。いつの間にかたくさんのひとでたちが2人を取り囲んでいました。人間がどうして海にいるのか不思議で興味があったからです。王子は人魚姫の尾に頭をのせ、そばによってきた橙色のひとでを見て「五角形の生き物だ。空に浮かんでいるはずの星がこんなにたくさん海の底にいるなんて思わなかった。なんだか空の上にいるような気持ちになってくるよ」と、面白そうにそっといじると眠りにつきました。
  人魚姫は王子の眠る横顔を眺めながら、この方はたくさんの民に愛されているにちがいないと感じました。王子の寝言からいろいろな人間の名が出てきて、その人間たちと王子が夢のなかで笑ったり話しかけたりしているのか、楽しそうに寝言を何度もつぶやいていたからです。とくにマーガレットという名を呟いたとき、もっとも幸福そうに王子が微笑んだように見えました。髪を撫でながら、王子のことを待っている国の人々がいることを考えました。(この人はもうすぐ陸に戻る。でも今だけは明日のことを考えることはせず、王子のことだけ見つめていたい)人魚姫は王子のとなりで眠りました。王子の腕に人魚姫の腕がふれると海のなかなのに人間の肌のあたたかさはそのままで、そのことに驚きながらも心地よい深い眠りにつきました。

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  翌朝人魚姫はまだ空が暗いうちに起きると海の上にいき、なかのよい海鳥たちに王子の国の様子を見てきてほしいと頼みました。そのあと海のなかにもどり、目覚めた王子に、すこしここから遠くの海に遊びに行きましょうと誘いました。人魚姫は王子の手をひき珊瑚の楽園で楽しく過ごしました。珊瑚の楽園は、橙、黄、紅、桃色、さまざまな珊瑚が生えていてこの世とは思えないほど美しいところです。巨石がそびえ立ち石の表面には今にも動き出しそうな海獣たちの顔や体が彫刻されていました。珊瑚礁はどこまでも続き迷路のようになっており、迷ってしまいそうなほどでした。王子ははぐれてしまうかもしれない、ふたりの手をひとつにしようといって手を差し出しました。人魚姫はそっとにぎりかえしました。生まれてはじめてつないだ人間の手はあたたかく、たのもしく、力強い手でした。
  人魚姫は王子がそばにいると今まで見慣れていた海の世界がずっと何倍も美しく見えることに気がつきました。別の国を見ているかのような気さえしました。また王子も人魚姫と同じ考えでなにかに目覚めたかのようにこういいました。
   「海の世界は今まで見たどんな国より素晴らしいと思うよ。どこまでもきれいで、戦争ばかりの人間の国より楽しい。今わたしの国のまわりでは争い事ばかりで、権力のあるものばかり得をしているのに、そのかげでは弱い子供や老人が犠牲になっている。なにもできない自分が情けないし、つらくてたまらなかったんだ」
  「王子さま、それはさぞおつらいことでしょう。弱いものが犠牲になる光景を見ていれば、心が滅入ってしまいますわ」
  「ああやはり、きみはそういってくれると思っていたから、つい情けないことを話してしまったね。別の話題にしよう。実は海の水に触れるのは生まれてはじめてなんだ。海の中には危険な生き物や魔物がいて、人間に害をなすって聞かされていらから。でもそれは真実ではなかった。どの魚たちはおとなしいし、きみもはじめて出会ったわたしを助けてくれるほど思いやりにあふれている。なにも恐れる必要はないってわかったんだ」
  (魔物。わたしは海の世界へ歌でおびき寄せ命を奪う行為をしている。それはまさに自分自身のことではないか)人魚姫はそう思いました。嬉しそうに語る王子とははんたいに沈み込むように悲しげな瞳をした人魚姫はいっそう思慮深くきれいに見え、王子は胸が高鳴り、思わず高鳴るあつい思いを告げました。
 「きみがすきだ。ずっとここで暮らしたい。ずっときみといたい」と。きみといられるならすべてを捨ててもいいとも言われ人魚姫は嬉しいやら悲しいやら、複雑な心境でした。(王子さま、わたしもそう望んでいます。あなたとただともに暮らしたい。そうすることができたらどれだけ幸せか!でもわたしたちは3日間しかともにいられないのです)人魚姫は寂しさをこらえて微笑みました。返事の言えないまま人魚姫は王子と岩に横たわり、ともに髪をなであい、たがいを抱きしめました。抱きしめられた人魚姫は昨日の考えは頭からきえてしまい、王子を陸にかえしたくない、王子とずっと海にいたいと願っていました。そのための方法を聞きにある場所へ行こうと決心しました。
  王子が昨日のようにぐっすり眠るのを見届けると人魚姫は海蛇や鮫と暮らしている、母と比べ物にならないほどの魔術が使える本物の魔女のところに行きました。さまざまな岩や蔦が生い茂り、魔女のすみかについたときは肌に幾筋もの血がにじんでいました。魔女は朽葉色の髪をしていて、その髪は蛇のようにうねうねと意志をもって蠢いていました。しかも魔女のそばには人魚とも人間のものともしれぬ白骨がいくつも転がっていました。人魚姫は恐ろしさにふるえましたが、勇気をだして魔女に問いかけました。
 「偉大な力をお持ちの魔女さま、わたしは人間に恋してしまいました。またその方もわたしのことを愛してくれています。その人間はわけがあって今海の世界におりますが、もうすぐ海の中では呼吸ができなくなってしまうのです。だから、どうか教えてくださいませ。その男を永遠に人魚にする方法はあるのでしょうか」
  魔女は魔法の水晶玉を持っており海の国でおきたことはどんなちいさな出来事でも知っていたので、人魚姫が王子を助けたことももちろん知っていました。ひっしにうったえる人魚姫をあざけるように魔女はくくっと不気味に笑いながら人魚姫を見つめました。
  「ああ、たしかにわたしは人間を人魚にする魔法を知っているよ。あんたが想像しているよりきっと簡単さ、わたしが作った飲み薬を飲み干すだけでいいんだからね。ただし、その魔法薬が欲しいのならば、引き換えに礼としてあんたの身体の一部をわたしてもらおうか」
  「身体の一部とはどこでしょうか。髪でも耳でも指でも、この身で気に入るものがあるならなんでも喜んで差し上げます」
  「瞳さ。あんたの緑色の2つの瞳はこの上ない魅力的な光を放っているからね。ずっと水晶玉の向こうからあんたの緑の瞳を見ていたのさ。そう、こちらを見つめるその2つの瞳。ゾクゾクして目を離すことができなくなるよ。いつかかならず手に入れて玉座に飾っておきたいって思っていたのさ」
  「まあ、わたしの緑の瞳など、まったくおしくはありません。あなたさまがお望みならば、今すぐこの両目とも繰り抜いて差し出しましょう!王子さまが人魚になるためですもの」
  「まだ待ちなさい。人間が人魚になるには、まだ、重要な問題があるよ。その男にも犠牲を払ってもらうことになる。大事なことだからよくお聞き。人魚になったその瞬間、その者は心をすべて失うことになる。それまでの人生をすべて投げ捨てて、まったく別の命をはじめることになるからね。肉体とともに心も滅びるのさ」人魚姫は魔女の言葉を聞いて思わず驚きのあまり手で口をおさえました。
  「王子さまの心が消えてしまうなんて…そんな!心を失くすといったいどうなるのでしょうか!」
  「そうだねえ、たとえば、どんなに美しいものを見ても何も感じることはないだろうね。感情もなくなり、喜びや悲しみも一切なくなるよ。だから笑うこともなくこともない。もちろんあんたを見てもまったく心が動かなくなるだろうね。さあ、どうするかい。わたしはどちらを選ぼうがかまわない。それでもみなが幸せになれると思うなら、使うべき魔法だよ。あんたは気に入った王子を人魚の人形としていつまでも望むままにそばにおいておけるんだ。朝までたっぷり時間をかけて考えるんだね。わたしはあんたのために薬を用意して待っているよ」
  悩みながら魔女のすみかからでましたがいっこうにこたえがでないので、人魚姫は風にあたってどうしようか考えようと海の上まで泳いでいきました。広い夜空できらきら光る星を見ながら魔女の声を何度も頭の中で繰り返し考えました。
  「わたしは魔法の報酬に己の瞳を渡し視力を失ってもかまわない。ああ、けれど、王子さまが王子さまではなくなる。たとえ人魚になってもその方はもうわたしを愛してくれた王子さまではない。産まれた時にあたえられた体ではなくなること、その行為の罪深さゆえなの。命のない彫像のような王子さまになったら、わたしたちは今のような気持ちでいられなくなるような気がするわ。感情も心も何よりも大事なもの。失ってしまったら生きている意味があるのかしら…?」
  夜空を見上げていると1つ、また1つと星がきえていきました。明け方になって空が白みはじめましたが、まだ最後の1つの星がのこっていました。人魚姫はその星を見ていると自分をあたたかいまなざしで見つめてくれた王子の褐色の瞳を思い出しました。人魚姫を見つめてくれる王子の瞳は一緒に過ごすときいつも情熱を秘めて輝いていましたが、きっと心を失ってしまえば、瞳にうつる星のようにきらめく輝きもなくなってしまうのでしょうと、人魚姫は思いました。その空にうかぶ星もしだいに水色になっていく空に溶け込み見えなくなり、朝日がのぼってきて黒い海をまばゆい黄金色にてらしだしました。
  やがて太陽の光に導かれるように海の彼方から海鳥たちが飛んできて、心配そうに人魚姫のそばで飛び交いました。人魚姫は海鳥たちから王子の国の人々がいかに王子の行方を心配してその身を案じているか聞いて知りました。とくに王子を慕っている隣の国の王女のマーガレットは気が狂わんばかりに嘆き、食べ物も口にせず、とうとう倒れてしまったそうです。そして、王子がいなければ自分が生きている意味などない。1日もはやく自分も死んで王子のいる空の国でお会いしたいと、死ぬことさえ望んでいるというのです。(おかわいそうに。王子さまが無事生きていることをご存知ないのだ。マーガレットさまは、わたし以上に王子を必要としていらっしゃる…)
  人魚姫は王子のところに戻り、すやすやと安心して眠る王子を見つめました。その時王子のシャツの襟もとにマーガレットの花の刺繍がしてあることにようやく気がつきました。それは1つ2つではなく、襟元がすべてかわいらしいちいさなマーガレットの花で刺繍されていたのです。
  「この花はおそらくマーガレットさまが刺繍なさったのね。自分のかわりにいつも王子を守ってくれるようにとお守りがわりに…」
  白い糸と黄色い糸で心をこめてひとつひとつ刺繍された花を見て、自分がどうしたいのかはっきりわかりました。(王子さまの記憶と心をけすなんて、そんな悲しいことはできない…。マーガレットさま、王子さまはもうすぐ帰ります。待っていてください)人魚姫が指で柔らかい茶色の巻き毛の髪を撫でているとゆっくり王子が目覚めました。
  「ああ、よかった。戻ってきてくれたんだね。さっき夢のなかできみと音楽に合わせワルツを踊っていたのに、とつぜんいなくなってしまいとても悲しくて目が覚めたんだ。そしたら本当にきみがいなくて、心細くて胸が痛くなってしまった。いったいどこへ行っていたんだい?」
  それは夢のなかの出来事なのに王子はひどくさびしそうに問いかけました。人魚姫はにっこり笑ってこたえました。
  「永遠に続く幸せの道を探しに行ってきたのです」
  「幸せの道…?」
  「けれどやっとわかりました。わたしはもうじゅうぶん幸せです。王子さまと出会えたから。王子さまからかけがえのないものをたくさんいただいたから」人魚姫はそういいながらやさしく王子のことを見つめてそれから額にキスをしました。


  2人が出会ってから3日目の満月の晩、人魚姫は王子を浜へ送りました。風のないおだやかでしずかな夜でした。

――王子さま、王子さま。あなたと同じ人間に生まれたかった。わたしはあなたのことを愛しているのです―――

  喉まででかかった言葉をのみこんで、人魚姫は王子の頬にそっと最後のキスをしました。王子の顔にははげしい苦痛が浮かんでいました。先ほどまで海のなかで幸せな気持ちで人魚姫の髪に飾る貝殻を探していたのに、今はとつぜん告げられた人魚姫の言葉で深い悲しみの気持ちになっていました。
  「ごめんなさい。王子さまはどうあっても人魚にはなれないのです。どうぞ人間の世界にお戻りになってください。王子さまを待っている人が大勢いらっしゃるはずです、どうかつまらないわたしのことなど忘れてください」そういわれ、せめてそれならば今のこの人魚姫のともにいる一瞬を見逃さないという気持ちで人魚姫のとなりにいました。
  「さっきわたしのことを忘れてといったね。でもぼくはきみのことを永遠に忘れないよ」といって人魚姫と同じように頬に口づけのおかえしをしました。王子には民のため政務が、人魚姫には海の守護という役目があることをいたいほどわかっていました。とうとうお別れの時がきたのです。
  「わたしの愛する王子さま。ずっとおそばにいたかった。でもあなたは愛されている。自分では気がついていないほど、たくさんの人に愛されているのです。だからお別れしなければいけないのです」
  「人魚姫、たしかにわたしには婚約者はいるが、幼いころからいっしょに遊んでいた存在だから、その娘をどうしても妹のようにしか感じられないんだ」
  「王子さま、きっといつか真実の愛に気づかれます。いまはまだ、王子さまが忙しいので何もかも曖昧に見えるだけなのです。さあ、故郷に帰ってまた懐かしい暮らしにもどってください」王子は切ない思いにかられながらも人魚姫の気持ちをすべて受けとめ、うなずいて帰ってゆきました。人魚姫は王子が見えなくなるときまで浅瀬で見守り、海へもどりました。

                    *             *            *

  そしてまた人魚姫はひとりでひっそり海のなかで過ごす暮らしにもどりました。その数日後、いつまでも魚を取り続ける人間の気配がしたので海から顔を出しました。そしていつものように海を荒らす人間を罰するため歌おうとしましたが、どうしたことでしょうか。(おかしい---歌えない……!)いつものようにまったく上手に歌うことができないのです。それどころか歌おうとすると舌を失ったかのように声がでなくなってしまいます。歌おうとすればするほど今まであふれていた声の泉は枯れ、喉からようやくでた吐息はとても歌とはいえず空中をさまよい居場所を失っていくばかりでした。王子というひとりの人間の男を愛してしまったためか、人魚姫はもう二度と美しい誘惑の歌を歌うことはできませんでした。
  「わたしは歌うことだけで存在価値があったというのに。もう海でやるべきことが見つからない…」悲しんでもいられず、まずは王にそのことを報告しなければならないとお城へいきました。人魚姫は王に人間を助けたこと、そしてその人間がやさしかったためにもう人間を殺したくないと思ってしまい人間を招く歌を歌えなくなった事情を話しました。王は人魚姫の声がとぎれすべて話し終わったのだとわかると娘をそっと抱きしめました。
  「今までおまえだけにつらい思いをさせてすまなかったね。もう解放しなければいけない。常々そう思いつつおまえの歌に甘えてしまっていたわたしを許してくれ。これからはおまえが本当にやりたいことを見つけやりなさい」そういっていたわるように抱きしめました。
  「わたしがおまえに会うことを避けていたのは、おまえを見るとおまえの母を思い出すからだ。わたしはおまえの母を他の人魚が思うよりずっと愛していたのだよ」
  「お父さま……」人魚姫ははじめて父が母のことを深く想っていると知って驚きました。はじめて父の心にふれた気がしました。人魚姫は父に別れをいうと、お城を出ました。人魚姫は産まれ育ったお城を振り返りませんでした。ふたたびそこへ帰って来ることはないだろうと感じていたからです。
  人魚姫は歌うことをあきらめ海底のあちらこちらをさまよいました。やがて海藻も珊瑚も生えていない荒れ地にきては愛しい王子を想いあたたかい涙を流すようになりました。悲しいことがあった時人魚も人間のように泣くのですが、その流す涙はいつも海の泡とともにとけて一瞬で消えていきます。けれど人魚姫のそれは輝く雫となり、海の泡とまじってとける前に一粒の種にかわりました。涙を流すたび、零れ落ちた涙は輝く虹色の種にかわりました。それは人魚姫の最後の魔法の力となりました。人魚姫の頬をつたい砂の上に降り立った種は空の上の星のように海の国をやさしい光で包みました。
  それからも人魚姫は王子のことを毎日毎日繰り返し思い出し、そのたび涙はとまりませんでした。涙から生まれた虹色の種は日ごとにふえ白い砂の上にまかれ、やがてたくさんの芽が出てきました。そして芽はやがて緑の葉をつけ、葉のつぎはつぼみがふくらみ、ある夜、見守っていた人魚姫の目の前で小さな花びらが5枚ついた花がいっせいに咲きました。黄緑、水色、桃色、黄色など、いろいろな淡い色の花が数え切れないほど咲いたのです。ほかにも茶色や白や黒い花も咲いており、その花々がつどう場所は世界中のありとあらゆる色がそろっていました。人魚姫の愛が咲かせた涙の花でした。人魚姫は朝から夜まで花を傷つけないよう心をつくして手入れをしました。成長を妨げるような大きな石が落ちていれば取り除いてやり、よぶんな植物が茂れば抜いて、枯れていれば割れた貝殻を粉にして作った肥料をあたえました。世話をされた花はさらに増え、はしからはしまでが遠くて見えなくなるほどの広大な花園になっていきました。そして人魚姫が花にふれると、なおいっそ色鮮やかに輝くのでした。人魚姫が花畑の上でくるくる舞い踊れば、呼応して花も波に愛らしく揺れて、まるでともに踊っているかのようです。
  それからはもう誰も、人魚姫のことを『死を歌う人魚姫』とは呼びませんでした。「ねえ、ごらんなさい。花とともに生きているあの方は『花の海の人魚姫』ですよ」と、姫を見かけるとこのような美しい名で呼び微笑みかけるのでした。花で冠を編みいつもその花冠を頭につけていたので『星の花冠姫』とよぶ人魚もおりました。さまざまな色合いで作られた虹色の花冠は人魚姫の色のついていない白い髪を引き立てて誰より高貴に見せ、また花冠のほうも、姉妹の人魚姫たちがつけているどの冠よりも美しく素晴らしい冠に見えました。

  こうして花の海の人魚姫は人魚の一族ではじめての園芸家になりました。人魚姫は涙から生まれた花を星の花と呼びました。珍しい星の花を見るためにたくさんの人魚がはるばる遠い海からやってきました。人魚姫は、ある時星の花を見るために冷たい北のほうの海からやってきた黒髪の黒い瞳の人魚に出会いました。「あなたが花の海の人魚姫なのですね」と呼びかけられ黒い瞳でじっと見つめられ、人魚姫はその深い色の瞳のなかに吸い込まれそうな心地がしました。その人魚は人魚姫と同じかそれ以上に花を愛する人魚でした。彼はごく自然に人魚姫の手伝いをしてくれ、やがて毎日ともに花の世話をするようになりました。そして季節はめぐり冬のまえ、星の花が眠る時期でした。人魚姫はどうしてこの花が咲いたのか、もう花の時期が終わり枯れてしまった花びらをちぎりながらポツリと話しました。「不思議なほどその方のことを思い出すといまだに胸があつくなることがあるのです。おかしいと思われますよね。もうけして会えない方なのに」すると黒髪の人魚は真面目にこたえました。「いいえ、まったくおかしくありません」人魚姫は笑い飛ばされるかと思っていましたし、ずっと秘めていた思い出をようやく誰かに語ったことに自分でも驚いて、思わず嗚咽をもらしました。その時王子と別れてからずっとあった胸のおくの冷たい氷のかたまりのようなものがようやく溶け昇華されていくのを感じました。「王子のことを想っていてもいいのです、誰かに恋する気持ちは宝石より眩しく輝く尊い宝物だと思います。あなたの気持ちが何より大切なのです。いつか、それでも、わたしといっしょにいてもいいと思ってくれるなら、わたしはあなたのことを生涯守って生きていきたいと思います」そう言ってくれた黒髪の人魚に人魚姫はだんだん心をひらくようになり、やがて結婚を誓い合う仲になりました。彼はじつは北の海に住む人魚の王子でした。そして2人はたくさんの星の花に囲まれて結婚式をおこない、花の海のちかくに住まいの城を建てて、300年の時を幸せに暮らしました。 人魚姫はふたたび歌えるようになるのですが、それは結婚からもうすこしたってから、人魚姫に赤ちゃんができてこの世に生をうけてからのことです。それは死を招く歌ではなく、我が子のためにかなでるあまい子守唄でした。
  これはずっとむかし生きていた人魚姫のお話ですが、海の底には今でもいつでも花畑がひろがっていて、人魚姫が育て愛した花はいまも魚たちに愛でられながら誇らしげに咲いています。


*このお話は忘れられた夢の国のHioさまのイラスト『ハナノウミノ人魚』からうまれました。
花のうえで遠くを見つめながらたゆたう人魚さんが大好きで許可をいただいて書いてみました。
サイト7周年のお祝いにプレゼントさせていただきます。
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