星明かりの海

星明かりの海


*小川洋子先生著「おとぎ話の忘れもの」”人魚宝石職人の一生”の二次創作です


*  *  *  *  *
末の人魚姫さまが地上へ去られたあと、わたしは哀しみのあまりこの仕事をやめてしまおうかとおもいました。
男の人魚にあたえられた仕事はさまざまですが、宝石をあつかう職人の仕事はたいへんめぐまれたほうでございます。
なかには幾日とたたないうちに心身をやんでしまうようなもっと過酷な労働もあります。
もし海の果てで恐ろしい魔物と戦う兵役についたならば、心も凍りつく恐怖のため、恋い焦がれても届かない人魚姫さまへの想いもきえてしまうのではないかと考えたのです。

ですが、もし人魚姫さまが無事海へ帰られたとき、ふたたびわたしのつくった髪飾りやひれ飾りをつけたお姿を見たいという希望もありました。
だから、姫さまが地上に去られたあとも、わたしは命じられた6番目の人魚姫さまの宝飾品を作りながらも、いまだに末の人魚姫さまのためひそかに
宝飾品を作り続けていました。

そんなある日のことでした。
海の底でひとり髪につける真珠の加工をしていると、突如人魚姫さまの気配を感じました。
急いで、本能のまかせるままにそちらへむかっていきました。
そして、海にただよう人魚姫さまを見ました。
もう人魚ではなくなり、二本の脚があるご様子です。
でも――人間になられても、わたしには愛おしい人魚姫さまであることにかわりありません。
わたしは一瞬すべてを忘れたちどまりました。

しかし人魚姫さまに会えた嬉しさも束の間で、その姿は光にすけてどんどんきえていきます。
わたしは瞬時に、人魚姫さまに最後に愛を伝えたいと、決心しました。

今冷静に考えればまったくおかしいことです。
ひとことも話すことができない身であるのに、しかも身分の違う方に、いったい何ができたというのでしょう。
たとえ人魚姫さまにおいついたとしても、わたしはあいかわらず宝飾をささげることしかできないのです。

ああ、お待ちください!いまひとたび姫さまにお逢いしたいのです。また人魚姫さまにお仕えして生涯を終えたい。

海の泡から生まれた女神アプロディーテに、そう祈りました。
しかし願いはかなえられることなく人魚姫さまの身体はさらにうつろになっていきます。

尾ひれを必死にうごかしているのに、なぜかまえにすすんでいないようであせるばかりです。
人魚姫さまはそんなわたしに気がつくこともなくゆったりと沈んでいきます。
白い衣装がゆらめいている姿は海月のごとくやわらかで儚げでした。
あと少しで人魚姫さまのところにたどりつくというところで、なんとじょじょにその身体が泡にかわっていくではありませんか。

今まで出したこともないはやさでわたしは近づいていきました。
そのあいだにも、からだの輪郭がなくなっていき表情が冷たくなり、人魚姫さまは小さく透明におなりです。
もはや意識もなくなりかけているとおもわれました。

人魚姫さま、宝石職人のわたしです。あなたは幸せになるべきはずだったのに、どうして、と声にならぬ叫びをあげました。
返事のないままふんわりとしたながい髪に手をのばし、彼女を抱きしめようとしたその時、人魚姫さまは数えきれぬ泡となりました。
腕のなかで真珠にそっくりの白い泡がとけていきます。

泡になってしまわれる瞬間、彼女はわたしをふとみとめました。
そして、ひとこと呟かれました。
それはたしかに、わたしの耳にとどいたのです……。


それからわたしは宝石をつくる仕事場の深海にもどりました。
そして、最後の仕事に取りかかりました。
これまで集めたきた珊瑚や真珠や巻貝などの材料を選びぬき、もっとも素晴らしい部位だけをつかって、加工と装飾をくりかえしました。
完成したものはまばゆい光をはなちたぐいないほど美しくみえました。
人間の宝石職人でさえ、豪華な宝石類をつかったとしてもこれほどのものは作れまいとおもえるほどの出来栄えでございました。
それはわたしの最高傑作になる首飾りにちがいありませんでした。

持っていく場所は地上です。
この首飾りを届けるためわたしは命をおとすでしょう。
それでも何の後悔もございません。
彼女の王子への想いの苦しみや悲しみにくらべれば、ものの数にはいらない苦しみでしょうから。

仕事場を整理すると誰にも告げることなく首飾りのみをもって出発いたしました。
暗い深海から日差しがさしこんでくる海面にちかづくと、身体にしびれるいたみの感覚がおそってきました。
鱗は引きちぎられように溶けていきます。
それでも力尽きるまで、首飾りを落とさぬよう、岸をめざすと泳いでいき、とうとうわたしは浜辺に辿りつきました。

海から顔をだすと、太陽に照らされた建物が目にはいりました。
目的地についてわたしはもう何の心残りもないと、ひどく安心いたしました。
疲れ切った身体を浜辺の砂に横たえ、王子が結婚したばかりの王妃と暮らしているであろう、立派な城を見上げます。
そして、まるで星を細工したような輝きをはなつ首飾りをそっと置きました。
その場にいあわせたやどかりがふしぎそうに首飾りをつつき、さっていきます。
ふと首に、背中に、あたたかいながれを感じ、それが風だというものだとわかりました。
からだをやさしくいたわるようになでていき、わたしはいたみがなくなっていくようにおもいました。
でも、もうこの身体は限界まで朽ちていて人魚の姿を保っていられなくなっておりました。
男の人魚は地上にでれば罰としてきえてゆく運命とさだめられています。
寄せてはひいていくさざ波のなかにたおれ、目を閉じました。
そのまま意識をうしなっていきました。

わたしが地上の世界をみたのはそれが最初で最後でございました。


気がつくとわたしは蒼い広い海にいました。
いったいどうしたのだろう、からだがなくなるまえに海にもどされたのだろうか――――そんな考えをめぐらせながらゆっくり泳ぎました。
でもしばらくたつと長年暮らしてしたあの冷たく暗い深海ではないことに気が付きました。
あちこちで光っている赤や青のものは海星だとおもっていたのですが、それよりもさらに何倍も美しく輝いているからです。
下のほうをみると、思いがけず水がはてしなく広がる光景が見えて、ああ、今まで暮らしていた本当の海があれなのだと理解しました。
ええ、そうなのです。
そこは、海とはなれた遠い空の世界でございました。

これが夢ではないとすれば、いいえ――夢でもかまわないのです、あの方もいらっしゃるに違いありません。
わたしは人魚姫さまがいるであろうもっとも高い星空にむかって泳いでいきました。
わたしに星が好きだと話してくれた人魚姫さま。
姫さまは星にふれてみたい、とわたしに囁いてくださったことがありました。
いま、望めば煌めく星がすぐ手に届く位置にございます。
しかしわたしは、いちばん遠くでちいさな光をはなっている星にむかって泳いでいきました。 きっとそこにいらっしゃる。
わたしは今度こそあなたを離しません。
そして、星で金銀の首飾りを作り続けましょう。

あなたは泡となってきえる瞬間、いってくださいましたね。
生まれ変わったら、またあなたに逢いたいと。
人間の王子ではなく宝石職人のわたしの瞳をみて言ってくださった。
だからわたしはあなたに逢いにいきます。
人魚姫さまが今でも王子さまを愛していたとしても、わたしは誰よりあなたを愛しているのです。

またたく星をかきわけすすんでいくと、懐かしい姿がありました。
暗闇でもはっきりと見えます。
人魚姫さまは星明かりのなか、うれしそうに泳いでいました。
魔法でかわってしまったはずの人間の脚から人魚のおひれにもどっています。
わたしの眼はなみだのため、もう何もうつさず、それでも姫さまの姿だけははっきりわかります。
人魚姫さまもわたしをふりむかれました。

わたしはちいさなからだを抱きしめ、愛していますと告げました。

海のなかでは話す機能をもたなかったはずなのに―――、喉からかすれた声がでたのです。
どこまでも星の光がまたたき、海にいた頃よりも美しい人魚姫さまをてらしていました。




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