短剣/ルビー

短剣/ルビー 1




蒼い海の奥深くに宮殿があり、7人の美しい人魚姫が住んでいました。
もっとも美しい末の7番目の人魚姫は誕生日の日に、海の上へあがっていきました。
そこでは自分と同じく誕生日を迎えた王子のために、華やかな誕生日祝いが行われていました。
けれど宴もたけなわの頃、空が荒れてすさまじい暴風雨になり、大勢の客をのせた王子の船を襲いました。
人魚姫は嵐に巻き込まれた人間の王子を見つけ、人間の国へと送り届けました。
海に戻った人魚姫は、王子を忘れることができませんでした。
凛々しい王子に恋をした人魚姫は、魔女に魚の尾ひれから人間の足にかえる魔法の薬をもらい、王子のもとへいきました。

不思議な光沢を放つ紫色の薬を渡しながら魔女は暗い声でささやきました。
「だがいいかい。王子がお前を結婚の相手に選ばなければ、お前は海の泡になり消えることになるよ」
人魚姫はしっかり薬の瓶を受け止めると小さな声でこたえました。
「いいのです。どのような最後になっても、けっして後悔しません」
薬を飲み干すと気が遠くなり、人魚姫は気を失いました。
目が覚めると、人魚の足は消え、その代わりに人間の足がすらりとついていました。
目の前には心配そうに見守る王子が見えました。
王子に話かけようとしましたが、喉が痛むばかりで、声はでてきません。
震えながら必死な表情でこちらを見つめるこの少女は、きっと何か事情があるのだろうと、王子はそばにおいて守ってみせようと決めました。

王子は薬のかわりに尊い声を失った人魚姫を、自分の妹のようにいたわり保護しました。
二人はとても睦まじく仲良くなりましたが、幸せは長く続きませんでした。
まだ結婚相手が決まっていなかった王子は、となりの国の王女と結婚することが決まったのです。

このまま王子が人魚姫ではない人間と結婚すれば、人魚姫は海の泡となり消えてしまいます。
けれど、妹の運命を変えるために、6人のお姉さまは、魔女から短剣をもらいました。

鋭い刃先より輝くのは、血の色よりもさらに濃い柄に嵌め込まれた赤い宝石でした。
長く豊かな髪の毛がわずか肩ほどの長さになってしまった姉君たちが人魚姫に短剣を投げました。
「いいこと、わたしたちのいうことをよく聞いて、王子の胸に剣をさしなさい。
短剣に血がしみこめばおまえの足は人魚の尾に戻ることができる。
そうすればおまえは海の泡にならずに済むの。
平和な海にもどって人魚としてまた私達といっしょに暮らすことができるのよ」と叫びました。

必死の思いで人魚姫に手渡したその短剣は、美しい王子に刺さることはありませんでした。
人魚姫には愛する王子の命を奪うことなど、けっしてできませんでした。
自分よりも王子を愛していたからです。




先に目を覚ましたのは、王女でした。
ベッドの下に転がっている短剣を見て王女は恐れ慄きました。
「ああ、神様。いったい何者が侵入した証でしょうか。こんな危険な刃物が王子か私を殺めようと狙っていたのかと思うと、なんて恐ろしいことかしら。」

愛おしい王子に心配をかけないよう拾うと、思いがけなくその装飾の美しさに目を見張りました。
「よく考えてみると、自分たちの命が狙われる覚えがないのだから、誰かからの贈り物かもしれない。
この赤い宝石だって、とても綺麗で上質なものをはめ込んであるもの。きっと遠い国から運ばれてきたルビーね。
情熱的な色・・・これまで見たどの宝石より魅力的に見えるわ----」
短剣をいったん撫でると、きっと結婚祝いのものだと思うことにして、バラ色の頬をして眠る王子に優しい目覚めのくちづけをしました。

目覚めた王子は王女と手をつなぎ大広間にゆき、大変豪勢な朝食をとっていました。

焼きたてのパンをとりわけていると、廊下が壊れるほどの足音で家来がやってきました。
そしてあの妹君がいなくなりましたと伝えてきました。
優雅な食卓テーブルにも、舟が大騒ぎになっている様子がわかってきました。
いつも冷静な王子が、ひどく妹と呼んでいた少女を心配しているようで、王女も少女のことをはやく見つかるとよいのにと案じましたが、その一方で、己のなかにとけた蝋燭の蝋のように熱い嫉妬がじんわりと広がっていることには気がつきませんでした。

少女を探すため王子がいなくなった後、落ち着きを取り戻した王女はゆっくり熱いお湯で入れた紅茶を飲み、ナフキンで口をぬぐうと、部屋の隅に立っていた男に目で合図をおくりました。
朝の着替えのときにドレスに忍ばせた短剣をそっと出すと無骨な手に握らせました。
男はこれまで王女の身辺の警護をする護衛をしておりました。
王女に近づく怪しい者は1人残らずすべて排除してきました。
ただ結婚の日だけは、王女の希望により、できるだけ遠くで見ていなさいと言い渡されていました。
人魚姫がすんなりと部屋に入ることができたのは、この男が偶然そばにいなかったからです。

護衛の男は、ずっと王女のすべてを愛していました。
王女に仕えるという使命を授かった少年の頃から、結婚された今でも、愛おしい気持ちは深まっていくばかりでした。
無口な男だわと王女はいつも感じていましたが、彼は本心では王女と話がしたくてたまらなかったのです。

けれども、いちど口がひらいたら、王女に愛の言葉を叫ばずにいられないことがわかっていました。
だから、何も語らず、ただ王女のそばにいられることだけを喜びとして生きてきたのです。


王女は短剣を男に授けると、もう別の人の護衛をなさいと、静かに、けれどはっきりと告げました。
「今限りで守りの任を解くわ」
と、知らせました。
男の海より青ざめた顔色に気づくことなく、花嫁になった幸せによって喜びに満ちた声で、
「ねえ、お前はもうどこにでも行けるわ、自由なのよ、良かったわね」
と笑いかけました。
「この短剣を最後にあげる。誰か名人が作ったに違いないわ。とても素晴らしい作りだから。おまえにぴったりの代物だと思ったの。さよなら。元気でね」

王女は薔薇色の頬をして今まで見た中でもっとも美しく見えるそのお顔で、男がもっとも恐れていた言葉を口にしたのでした。
そして、男は短剣とともに、この先何年も働くことをしてくとも、充分に生活できるほどの給金をいただきました。
なんの価値もない重い楔のように感じる給金を背に背負いました。

「俺はもうとても王女と王子が住むこの世界では生きていけない」

一人の少女の行方を探し未だに騒ぎがおさまっていない船内を歩き回り、男は1人のれるほどの小舟を見つけ、ひっそりと海に出ました。
櫂を漕いでゆくうち、王子と王女の乗る巨大な客船は小さく遠くなっていきました。

揺れる小舟はどんどん流されていきました。
“ああ、王女が結婚式を挙げたこの広い海原---。あの宴で王女のとなりにいるのが己であれば良かったのに---。
あの頼りない王子よりも、よほど自分の方があの方を深く愛しているのに―――
いや、夫になることなど恐れおおいことだ、はじめから望んでいない。
ただそばに仕えているだけで、幸せだったのに―――”


海辺で冷たい潮風に吹かれ、生きていく目的を見失っていました。

小舟に唯一のもの、数え切れない金貨とひとつの短剣が光輝く様子を眺めていると、ある使い道が頭に思い浮かびました。

“そうだ。この短剣で胸をついて、死んでしまおうか――
王女はひょっとしてそういうつもりで俺に渡したのでは。
まあわからないが、いいさ。今はただ胸に巣食う泥のようなものを吐き出してしまいたい―――”

男は何度もそう思いました。
短剣をいざ胸にあてると、王女の微笑みが浮かぶのでした。

空を見上げると太陽が照りつけるように輝いています。
その明るい太陽は王女の微笑みとよく似ていると思いました。
短剣を渡すときに王女が最後に見せてくれた眩しい笑顔を胸に抱きながら、今度こそと心臓を一気に貫きました。
小舟とともに沈んでいく赤く染まった体を、優しくゆっくりと波が包んでいきました。
自分の醜い亡骸が誰の目にも触れることがないだろうという安心感で、男はやすらかに海へ旅立ちました。


屈強な男の体は朽ち果てる前に、手足がなくなり、少しずつ鱗、胸鰭、尾鰭がはえました。
彼は悠然と海を泳ぐ赤い目の大きな魚になりました。
まだ誰も見たことがない魚で、誰も名前を知る者もいません。
鱗に薔薇のような斑点がある、それはたいそう美しい魚になり、人魚の国で静かに暮らしています。
海の国でも護衛をしていた人間だった頃の記憶があるのか、小さな人魚の子どもを見つけると、
危険な魚から守るようにそばに近寄り、寄り添うようにして泳ぎを見守っているのでした。




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