予知夢

予知夢

 





ちかりと暗闇に光る刃。そのとがったきっさきが獲物を狙うように、ためらいなく方向を定める。
お願い、待って、やめて――!
身体がその行為を止めようと叫んでいるのに、喉から出るのはわずかな吐息だけでまったく声にならない。


ぐさり。


間に合わなかった。
静寂のなか、やわらかな人間の肉体に、たしかに刃物が深く突き刺さる音がわたくしの耳元まで響く。
ナイフが刺さったままの身体から、血の雫がどんどん滴り落ちていく。
痛々しい傷を受けて倒れるその方は、この世の誰より愛しい人。

真白いシルクのシャツを着た逞しい胸に、真紅の薔薇のような染みが、徐々に艶やかに広がっていく……。



ああ。またあの夢。
目覚めた私は玉のような汗をびっしょりかいていた。ベッドの脇にある小テーブルから水とグラスをとり一口飲むと乾いた喉が潤い少しづつ気分が落ち着いてきた。
これまでに何度見ただろう。生きている心地がまったくしない。漆黒の暗闇に純白の衣装、それに真紅の鮮血が頭にこびりついている。
わたくしの愛する夫となる王子が、殺される夢を見るなんて……。
結婚相手を探してきたとなりの国の王子との婚約が決まったばかりなのに。
婚約者として王子の城で暮らすようになってからだ。決してあたらしい生活をはじめた疲労感による精神が起こしたものではない、と感じる。
なぜなら、このような夢をみるのは、わたくしにとってはじめてのことではなかったからだ……。



昔からわたくしは予知夢という奇妙な力を秘めていた。

最初の夢にかかわったのは肉親だった。
わたくしには年のはなれた兄と、年のちかい仲のよい妹がいた。
九歳の誕生日間近の、蒸し暑い夏の夜のことだ。
その妹が水辺で蛙と遊んでいる夢を見た。楽しそうに戯れていると突然蛙と湖に沈んでいく光景だった。
数日後、妹が水辺に行こうと言った。わたしが具合が悪いと断るとすねて一人で行くと供も連れず行ってしまった。 夕暮れ戻ってこない妹の身を心配して母が探させると森の湖で溺死している姿が見つかった。
足をすべらせたらしかった。遺体の上には青緑色の蛙が悼むように乗っていたそうだ。
不幸な事故だった、と両親は悲しみに包まれながら慰めあったが、わたくしは悲しみよりも夢が現実になった気持ち悪さで吐き気がした。
それからしばらくのあいだ、夢とまったく同じことが現実になった恐怖で食事も喉にとおらなかった。
神様、ごめんなさい、ごめんなさいと、毎夜ベッドで許しをこうた。
誰かに許してもらいたかったのだ。
もしあの時湖に行くことをとめていたら、きっと死なずにすんだのに。愛する妹を救えずにごめんなさいと。


二度目は十三歳の頃に体験した。恐ろしい程の洪水の風景からはじまる夢だった。
りんご畑で仲良くりんごをもいでいる老夫婦がまずうつった。
どこかで見たことがあるような夫婦に思えたが、それでも見知らぬ二人だった。
だが幸せな光景はすぐ一変した。
たわわなりんごの木を押し流すように、黒々とした濁流がやってきてりんごの実と夫婦を飲み込んでいく。
自分自身が溺れていて呼吸ができない錯覚で目が覚め、その苦しさは三日間つきまとった。
それから一週間後、その夢はただの夢だったと思い始めた頃、永く仕えてくれている気の良い侍女が泣いていた。
理由をたずねると、先日故郷の両親が亡くなったという。
りんご畑で生計をたててきた仲の良い夫婦だったと、涙ながらに語った。
大雨で近くの河が氾濫し、わたしの両親は召されたのですと言った時の侍女の顔を忘れることができない。



その時、わたくしは自ら認めることにした。
わたくしの見た夢は本当になりうる予知夢だと。
偶然二回、夢が現実になっただけかもしれない。
けれど、きっとまた大切な人に危機がせまることがあるならば、わたくしはその人を助けなければならない。
それが夢を見たわたくしの宿命なのだ、そう思えてならなかった。

せめてその人物がわかれば手もうてるのに――一王子を殺そうとしているのは誰なのだろう。
顔がいつも暗闇に隠れており、わからないままだ。
わたくしの王子を奪わないでくださいと、訴えることができればどんなによいか……。

王子を散歩に誘い、裏庭でさりげなく、王子に問うてみた。
「王子。最近わたくし王子のことが心配でたまりません。
こんなこと不謹慎で考えたくありませんが…お命をねらっているものがいるように思えるのです。
護衛の付き人をもっと増やされてはいかがでしょうか」
いくら話しても、苦労したことがないからだろうか、笑い返されてしまう。
「王女様。そのような輩はこの城にはいないよ。わたしが信頼している人ばかりだ。万が一不届きものが紛れ込んでも選りすぐりの家来たちがいる。だから心配しないで。それよりわたしが心配しているのは、妹のことだ。身体のこともあるが、人見知りをする子でね。どうか気にかけてやってほしい。もうすぐ、あなたの妹にもなるのだからね」
「わかります。わたくしも可愛がっていた妹がいましたから…。亡き妹がいたら、ちょうどあの年頃です。本当の妹と思って仲良くしたいと思いますわ」
「そうか。わたしなら大丈夫。何事もないよ」
王子がそう言えば言うほど、わたくしの心は沈んでいった。
それでもわたくしの気持ちなど、まわりの人は誰も知らないので、もうすぐですね、お幸せにと、欠かさず祝福の挨拶を交わしてくれる。
不安を残したまま、結婚式の準備はすみやかに進んでいった。


一ヶ月後、とうとう待ち望んでいた結婚式が行われた。
“この世で一番美しい花嫁様だわ“と、髪とドレスに薔薇の花を飾りながら侍女たちが微笑みかける。
結婚の夜、わたくしは王子と船で新婚の旅に出発した。
たくさんの笑顔に包まれ宴を楽しみ、はじめて王子とおなじ寝室で眠った。
幸せに満ち足りた夜だった。
もうあの夢は忘れよう。万が一何かあるとしても、夫をわたしが守っていこう――寝顔を眺めながらそう誓った。

誰もが寝静まった頃、寝室のドアをあける音で目が覚めた。
となりをみると、王子がいない。
探すと甲板に続く階段をのぼる王子がいた。
どこへ行くのだろう。

甲板で待っていたのは、王子が可愛がっていた妹君だった。
わたくしが聞いていたのは、妹と呼ばれる娘は、生まれつき話せない身体であること、そして迷子としてやって来たために王子と血がつながっていないということだけだった。

謎のベールに包まれた少女の儚げな姿が青白く月夜に輝いている。
はっとするような美しさに眼を奪われた。あの子があんなに神々しい美しさを秘めているなど、誰も気がついていないのではないだろうか。
王子が信じられない言葉を囁く。

「神前では王女と愛を誓い合った。だが、この深い海の上、広い空の下では、わたしの心は何者にも縛られず自由だ。
聞いてほしい。妹よ。愛している。
わたしが愛しているのはそなただけだ。
政略結婚をするわたしをどうか許してくれ。この国は軍力が不足しているので、常に近隣の諸国に狙われている。民のために結婚による絆を作るしかないのだ。わたしは王女を愛してはいない」

そんな――。
わたくしは王子を愛していた。
王子もわたしを愛してくれていると信じてきた。
それは浅はかな思い違いだったというのか。

妹君が王子の告白を恥ずかしそうに頷く。ごく自然に受け入れるということは、とうに二人の関係は以前からあったのだろう。愛の囁きはとまらない。
「可愛い妹、愛している。最初にあった時から、昔どこかで出会ったような、深い絆で結ばれているような気がしていたのだ。そなたも慕ってくれたのでわかった。わたしの探していた人はそなただ。これからもそばにいておくれ」

その言葉はわたくしだけのものだったはずなのに。
やめて王子。聞きたくない。
その娘より私の方があなたを愛している。
ずっとずっと愛しているのです。

その時、雲間から隠れていた満月が姿を現し、短剣がわたくしの胸元で光り輝いた。
嫁入り道具のひとつとして、母が持たせてくれた代々王家に伝わる護身の短剣。それに金の鎖をつけ首飾りにしていたのだ。
夢を見てから王子を守ろうと、いつも持ち歩いていた。真冬の氷よりも透明な水晶でできた短剣。
ふれた途端冷たい刃物は手になじんだ。


王子が少女に口づけようとした時、思わず身体が反応してわずかに前に出た。
乾いた木製の床に、花嫁の靴として特別に設えられた革の靴音がコン、コン、と何かを叩くように響く。
その音でようやく王子がわたくしの存在に気がついて、振り向いた。
「いつからそこに…」
戸惑う王子を見たくなかった。わたくしも、もう目の前で知ってしまったことを隠さない。
「すべて聞いてしまいましたわ――」
なぜ気がつかなかったのだろう。
言葉一つ発せないのに、本当の肉親でもないというのに、王子にこの上なく大切にされていることを疑問にしようとも思わなかった。
今も王子の後ろにほっそりした小さな身体を隠すように寄り添っている。まるで悪戯をしてしまい親から見つからないように隠れん坊をしている幼子のようだった。
わたくしは少女にはじめて憎しみを抱いた。
その思いは先程まで冷え冷えとしていた心の臓に火を灯し、全身に燃え上がり、どこまでも高く昇っていく。
何かを焼きつくすまでこの心はもとに戻らないだろう。

小さな短剣の首飾りをはずしながら、少女に笑いかける。人間というのは面白くもない状況でも、にこやかに表情を作れるいきものだ。
「あなたは王子の妹でも、わたくしの妹にはなれないわ。でも、もういいの。きっとあなたに会うのもこれが最後だから――」
その言葉が実際に口に出した台詞のか、心だけで考えたものかわからない。今、目の前の少女を殺そうと刃を携え、彼女の心の臓めがけてわたくしはまっすぐ走った……。

ぐさり。


夜空に響く短く鈍い音。
なんと想像以上に嫌な音だろう。その衝撃による人の声がしないのがかえって不気味だとぼんやり思った。
自分がした行為を見たくはなかったが、生々しい感触にそっと眼をあけた。


――血まみれになった少女がいるはずだったのに。
足元に倒れているのは王子の妹ではなかった。
王子その人だった。
妹をかばって、その身に短剣を受けたのだ。
少女が王子を胸にかき抱きひっしにゆすっている。
だが王子はその身をぐったり横たえ、目覚めない。
姿のない悪魔が身体を赤く染め上げているかのように、点々とした蕾の形から、咲き誇る薔薇の形に広がっていく深紅の血。
血は止まらずわたくしの足元まで滴っていく。
これは、そうだ、まるで――。

悪夢だ。



ああ、王子を刺した人物が今、わかった。

夢で何度も見た冷酷な殺人者。

それは私自身だったのだ―ー。


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