21.人魚姫

枕元に置いた懐中時計の秒針を刻む音がやけに気になり不安をかき立てる。
今頃はちょうど日が変わっている時間帯だろうか。
背からは波が生き物のように船底で蠢いているのを感じる。
いくらベッドに横たわっていてもまったく眠れないので寝間着のまま甲板にでてみることにした。

数人いる船員はそれぞれが見張りをしているのか向いている方向がみなばらばらだ。
酒瓶を持ったまま座り込んで眠りこんでいるものもいた。
生暖かい風にあたると夜中の海の不気味さが伝わってきて目が覚めるような気持ちになった。
上を見上げると月が青白く輝いていた。
船に合わせて揺れるような細く白い三日月を見ていると王女の横顔を思い出した。
昨日婚約者である隣の国の王女に会ってきた。
長いこと王女との再会を楽しみにしていたのだが、期待していたほどの感動はえられなかったのでわたしは少し胸を痛めている。


入城し王に挨拶すると、王の背中でうつむきがちに立っている女性がいた。
なぜかひどくおびえているように見えた。
王女だと気づき挨拶をかわそうと近づいたのだが、やはり顔はこわばったままで瞳は笑っていなかった。
そしてみなで揃っての食事になった。
わたしは王女の前の席に座ったが、食事中もわたしと話したくないといわんばかりに会話を避けているように感じられた。
幼いころもわたしたちは一度会っている。
昔の記憶の中の王女はもっと朗らかだった。屈託なく笑い、広い城を楽しそうに案内してくれた。
それとも、変わってしまったのはわたしのほうなのだろうか。
わたしが王女を美化してしまい、こうあってほしいと勝手に望んでいるのであろうか。
彼女は美しい容姿だったが顔に微笑みはなく、わたしではない誰かを見つめているような瞳をしていた。
何をたずねても、ええ、はい、ぐらいしか返事をくれなかった。

見かねた侍女が微笑みながらさりげなく口添えしてきた。

王子様。どうか気になさらないでくださいませ。王女様は奥ゆかしい方で、いつもこうなのでございます。
久しぶりの王子様との再会で喜びのあまり恥ずかしがっているのでございます、と。

しかし誰がそのようなことを信じられよう。その言葉は優しい偽りだろうと思う。
おそらく王女はわたしとの婚儀を望んではいない。誰か別の男をしたっているのだと感じられて仕方がない。

わたしとて何年ぶりにあったばかりの王女とすぐさま打ち解けられる関係になれるとは考えていない。
だがいずれは夫婦になるのだ。
結婚のあとでもいい。少しでも心をかよわせることができればいいのだが。
国に戻ったらまずは謝礼の手紙を書こうと決めた。
今は隣の国から船で帰路についている途中だった。我が城までは到着までもう二、三日かかる。
陸上とはまったく違う海上は果てしなく広く見える。城の窓から見渡す風景とはよく似ているがそれでいてすべてが異なっている。
このまま朝日がのぼるまでどこまでも続く黒い海を見つめていたいと思った。
潮の匂いが鼻をつく。
けっして好ましい香りではないのにどこか懐かしく感じるのは、水と塩がなければ生きていけない生き物としての本能だろうか。
こんなにも寂しい風景なのにずっと見ていたくなるのはなぜだろう―−−。


そんなことを考えていると、突然わたしは信じられないものを見た。

冷たい海面から小さな少女が海から顔を出してこちらをじっと見つめているではないか。
わたしは一刻もはやく救助の手を差し伸べなければと思い、大声で誰かきてくれと叫んだ。
声を聞きつけてすぐに船長が大柄な身体をゆすって走ってやってきた。船員も二名駆けつけてきた。


「どうしました、王子」
「船長!たった今、海に今若い娘が浮かんでいた。はやく助けてやらなければ」
すると船長は悠然と煙草をふかしながらわたしの言葉を笑い飛ばした。
「王子、お言葉ですが現在地は海のど真ん中です。おまけにまわりには島も小舟もない。
こんな暗い海に生きた人間がいるわけありません。
もしいたとしたら幽霊か、精霊の類でしょうな。暇つぶしに人間をたぶらかしたりしてからかって楽しむんです。
とくに王子はお若く美しいからやつらが誘惑したくなるのも無理はない。
まあそういったものは見なかったふりをして通り過ぎるのがいい方法ですな」
「だが、本当にいるんだ、ほら−−」
少女のほうを指さそうともう一度海を見ると―−−なんということだろうか。一瞬のうちに姿が消えていた。
「そんな、今さっきまでいたのに……いない……。たしかに目があったのに……」
王女のことで気を揉みすぎ、わたしは立ったまま夢を見ていたのだろうか。
「王子は旅の途中でとてもお疲れなのですよ。ここは我々にまかせてもうお休みください」
たしかに船長の言葉は納得のいくものだった。わたしはもう一度海を見た。
生き物一匹潜んでいないような静かな海が広がっているだけだった。
人の顔がでてくるのではないかと待ったが、あたりの海面に変化はまったくない。
「わかった。寝ぼけていたのかもな。見張りをしっかりしてくれ」
わたしはこの騒動で疲れたのかきゅうに眠くなり、寝所に戻ろうした。
すると唐突に船長がおめでとうございます、と言った。
その一言でわたしは今宵十六の誕生日を迎えたことを思い出した。
生誕の日を船上で迎えたのははじめてだよと返す。
船長はわたしは毎年のことです、たまには陸上で誕生日をむかえてみたいと愉快そうに笑った。

ベッドに横たわり一息つくと先ほど見た不思議な少女のことを考えた。
何物だったかのか正体は分からずじまいだが……まるで海原に一輪の花が咲いているようだった。
ふと寝室のすみに白い花が飾ってあることを思い出した。
蝋燭の光に浮かぶ美しい白薔薇を暗がりのなか見つめた。
その花に少女のおぼろげな輪郭の面影を感じながら、わたしは今度こそ深く静かな眠りについた。


どれくらい休んだのだろうか。突然激しい振動によって身体が浮いたような気がして目が覚めた。
先ほどとはまったく違う船の大きな揺れを感じる。危険を感じて慌てて身体を起こした。
部屋の窓の外を見ると荒れ狂う波が見えた。
急いでまた船長のもとへ行った。
大勢の乗組員の男たちがロープや帆で今の状況を回避しているようだ。
けれど状況はあきらかに悪いのは素人のわたしでもわかった。
もはや何かにつかまらないことには立ってられないほどに船は傾いている。
「船長、どうなっている。このままでは船が沈んでしまう」
もう煙草は持っておらず先ほど見せた余裕の表情は消えていた。
「王子、今立て直しております。急に強い風がでてきて嵐に巻き込まれました。ここは危険です!はやく船内の部屋にお戻りください」
「しかし――−……あっ―――!」
あっという間の出来事だった。
海の波が突如船内にまで襲ってきた。船長に手をのばそうとするが届くことはなくあっという間に波間にのまれてしまった。
高い波に引き込まれわたしは海のなかに投げ出された。
腕を動かしひっしにもがいたが、今乗っていたはずの船はわたしとは反対方向へどんどん遠ざかっていく。
「誰か助けてくれっ――」
叫びは誰にも届かない。服の重みで泳げないわたしの身体はじょじょに沈んでいく。

全身が海のなかに沈むともはや体の自由は一切きかず、呼吸ができない苦しみで気を失った。

生まれてはじめて死を覚悟した瞬間だった。




寒い……
突然わたしは意識を取り戻した。苦しい、ということはまだ生きている。
見渡すと風が吹き波は荒れており、まだわが身が嵐の中だったとわかる。
「ぷはっ」塩辛い海水が口をふさぐ。いや、口だけではない。目にそして鼻、耳にも、身体の穴という穴に海水が入ってくる。
雨もひどく降っている。
だが、なぜか海中に沈んではいない。
いったいなぜ生きているのかと見渡すと、わたしの身体は細く白い腕にかかえられていることにようやく気付いた。

誰かと身体が密接しているおかげでこの海に浮かんでいる。

二本の腕の持ち主を確かめようと顔を見ると、なんと……先ほどのあの少女ではないかーー。
目の前に先ほど海に浮かんでいた少女がいる。
轟轟と荒れ狂う海のなかにふたりきり。少女がわたしをかかえてこんなひどい嵐のなかを泳いでいるのだ。
ああ――。今宵は信じられないことばかり起こっている。
顔にかかる激しい波を飲み込まないよう呼吸しつつ、声にならない声で問いかけた。
きみはだれだ―−−?
驚いたことにわたしの必死の叫びは聞こえたらしく、少女はわたしを見つめ力強く抱いて耳元で囁いた。
「わたしは海を支配する王の娘。海の国に住む人魚姫よ」
人魚姫―−−−
繰り返すように発音したつもりだが自分の声がわからない。
耳に海水が入っているせいもあるが、おそらく身体が冷えて力が入らず発声することさえ思いどうりにならないのだ。
ふるえる私を見て少女はなだめるように大丈夫よ、と優しい声で囁いた。
「この嵐はまだまだおさまらないわ。いっしょにいれば少なくともあなたを死なせることはしない。
人間は水のなかで呼吸できないからとても苦しいだろうけど、我慢して、このままわたしの身体につかまっていて。
わたしもけっしてあなたをはなさないから。
さあ、いきましょう―--……!」
わたしは赤子のように人魚姫と名乗った彼女の胸に顔をうずめ、言われたとおりその体に抱きつき頼りない身をまかせた。
すると彼女は信じられないような力強さで海のなかを分け入るように早く駆け抜けていく。
華奢な人間の女と同じ上半身だということは感じられる反面、下半身は一切見えない。
だが、その泳ぎからようやく彼女は人間ではないということが理解できた。
このままどこにいくのか一体これからどうなるのか―――この荒れ狂う嵐の海のようにまったく先が見えない。
ただ今はっきりわかるのは、彼女がわたしの命運をにぎっているということだけだった。



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