22.300年の命


身動きがまったくとれないせいで自分の身体が鉛の大きな人形のように感じられた。
高波はいつまでもつきまとい、天上からは雨風が顔を覆い、心身を襲ってくる。
幾度も気を失い、冷たい海水に死ぬような心地を味わったが、そのたびに彼女の声であの世から呼び戻された。

―――もうすこしよ。しっかり気をもって。

暴風のなかでもしっかり耳に届く美しい声。
こんな地獄のような海で死の淵にいるというのに、まるで子守歌を聞いているような心地がした。
声によってはげまされるように荒れる海を越え、ようやく雨がおさまってきたとき、疲れからわたしの心に限界がきた。
この腕の中でずっとこのまま眠っていたい―ー。

そう思った時、もうわたしは海のなかでは目覚めることはなかった。





  *  *  *


―――ああ、生きている。

眩しい日差しで肌を焼かれ、ひりひりする痛みでようやく意識を取り戻した。
太陽に砂のついた右手をかざし、止まっていた己の身体の感覚を確かめる。
瞼をゆっくり開けるとあまりの眩しさに目がくらむ。
はじめは焦点があわず、光があふれる情景に目が慣れるまでしばし間があった。
わたしは嵐の海からたどり着いたこの場所で倒れていたしい。
となりを見ると、助けてくれたものもうつぶせになってぐったり倒れている。
背を覆うほどの長い波打つ金色の髪の下には輝く薄紅色の鱗で彩られた魚の尾がついている。
やはりわたしが見たものは幻などではなく、現実に人魚に助けられたのだとわかった。

それにしてもここはどこなのだろう。
近隣の国なのか。どこかの大陸なのか。あるいは島なのか。
まわりを見渡しても子どもひとり歩いていない。
百合ばかりがたくさん咲いていて、海から吹く風を受けてちいさく揺れていた。
まったくひとけのない海岸の様子から、まだ己が知らない場所であることは確かだと思った。
いまだに人魚姫はうつぶせになったままで心配になり仰向けに起こそうとすると、
わたしの腕の中でカシャンとなにかが鳴った。
よく見るとちいさな淡水真珠の額飾りと、同じく淡水真珠の対になった腕飾りを両腕につけており、それらがこすれた音だった。
ああ、それにしてもなんという美しさだろうか。
はじめて彼女の顔をしっかり見たような気がする。
艶めいた乳白色の皮膚、茱萸色の唇、長い睫毛に縁取られた瞳をうっとりと眺めた。
耳は大きく木の葉のようにとがっていたが不気味なものではなく、
それさえも神秘的な美に満ちており彼女の美しさを引き立てている。

シャツの袖を破きハンカチがわりにして美しい顔をぬぐってやるうちに、
彼女のほっそりした華奢な身体のあちこちに擦り傷があることに気がついた。
尾や腕からはわずかに血がにじんでいる箇所もあった。
わたしよりだいぶ小柄であるのにもかかわらず荒れ狂う海で男をかかえ、
泳いでいるうちに流木や小石などさまざまなもので傷ついてしまったのだろう。
「だいじょうぶか。すまない、わたしのために怪我をして……」
声をかけながら身体をゆらすとぱっちりと目があき、彼女の瞳はしっかりとわたしをとらえた。
そして目覚めるなりわたしの顔を両手ではさみ、愛らしい声でなにかささやいた。
「……」
聞こえなくてもういちどたずねた。
「なんといった?」
人魚姫はわたしの首に腕をからませると身をまかせ、こんどは安心しきった顔でつぶやいた。
「あなたが無事でよかった―――」
自分こそ怪我をしているのに、わたしの身を心配してくれている。
わたしを見つめる瞳は海のように真っ青で、吸い込まれそうだった。
人魚という生き物はみんなこんなに美しく優しいものなのだろうか。

「船から落ちた時からわたしをかかえ、ここまで泳いできてくれたのか」とあらためてたずねた。
人魚姫は悲し気にうなずいた。
「わたしたち人魚は300年の命があります。でもそれをすててでもあなたを助けたいと思いました。
昨日船の下であなたをはじめて見た時から、どうしてもお話してみたかったのです。
だから、どうかまだ行かないでください、ここにあなたをとどめてくださいと神さまに願ったんです。
するときゅうに嵐になって……。
ああ、きっとわたしはそんなことを考えたから、あなたをこんな目にあわせてしまったのです」
あまりに己を責めるように言うので、わたしは彼女の考えのせいではないと伝えなければいけないと思った。
「いや、天候は致し方ないことだ。きみがいなければこうして生きてはいなかった。ありがとう」
わたしはいいたいことがたくさんあったのに、それ以上何も言えなかった。
人魚姫といういままで考えたことさえなかった異形のものに、わたしは心惹かれてしまったからだ。
どうすればいいかわからない胸の高まりが、自分のなかに芽生えているのをはっきりと感じていた。


ふたりで見つめあっていると風が吹き、身体を冷やした。
わたしはいったん人魚姫からはなれると濡れたシャツと上着を脱ぎ、近くの大きな岩場にほし上半身裸になった。
人魚姫にすこし探索してくると言って、浜辺の後ろに広がる深い碧の木々のまわりへ向かった。
ところがいくら歩いても人どころかなんの建物もなく、動物もいなかった。
匂いたつような白い百合の花がどこへ行ってもまばらに連なり咲いているだけだった。
脚を引きずるようにして歩き回るうちにようやく湧水がしたたる洞窟を見つけ喉を潤し、
それから石榴のなる木を一本見つけのでいくつかもいだ。
その果実を持って人魚姫のところへ戻った。
彼女はそこがあたりまえの居場所のようにこやかに待っててくれていた。
わたしはため息をつき心からほっとしながら鮮やかに赤く光る石榴を渡した。



そしてわたしたちはまるで昔から知りあいのように浜辺に座って石榴を食べながら海を眺めた。
人魚姫は海の底の暮らしを語り、わたしの暮らしも知りたがった。
話してやると、目を輝かせてもっと聞きたいと先をねだった。
人魚姫は人間の世界がとても素晴らしいと思っているようだが、わたしは人魚の世界のほうがはるかに素晴らしいように思えた。
だが、それを口にすると人魚姫の夢を壊すようで黙っていた。
昨日の海の黒々とした色が思い出され、今は海の色がうすいなと何気なく呟くと、
春の海の色ですと人魚姫はこたえた。
そして今は三月のはじめだから、海がそれほど冷たいものではなかったのが幸いでした、とも教えてくれた。
たしかにもし真冬の海に投げ込まれていたらたとえ達者な人魚姫の泳ぎに助けられていたとしても、
凍傷で命がつきていただろう。
ここがどこか知っているのか人魚姫にたずねたが、彼女も昨日はじめて海の上を見て陸に上がったと言い、
困ったように首をふるばかりだった。
「助けがこなければわたしはひとりここで暮らすことになるのか」とため息をつくと、
人魚姫はいいえ、そんなことにはなりませんときっぱり否定した。
人魚姫はわたしの手をとると自分の頬にそっと持っていき、微笑みながらその手の上に自分の手を重ねた。
「わたしがここにいますわ。海の城には帰りません。毎日あなたのために海で魚をとってきましょう。
だってひとりで生きるなんて、寂しすぎます……」
「人魚姫……」
「お話のお相手ぐらいしかできませんけれど……わたしのようなものでも、いないよりはましですわ。
だから、おそばにいてもいいでしょうか―ーー…?」
胸があつくなり彼女を抱きしめたい衝動にかられ腕をのばした。
だがその腕は届くことはなかった。
突然人魚姫が叫び声を上げたのだ。
「あちらを見てください!船が見えます」
人魚姫が桜貝のような薄桃色の爪がついた細長い指で海の彼方を指さした。
遠い水平線の向こうを眺めると、たしかにあれは間違いなくわたしの乗っていた船だった。
「あの蒼い帆は身間違えようもない。わたしの船だ。あのひどい嵐でも船は壊れなかったのか」
人魚姫はすぐさま岩場で干していたわたしの上着をつかむと海に入り、振り向きながら一言いった。
「ここで待っていて」
止める間もなく人魚姫は泳ぎだし、海中に潜るとそれきりあらわれなかった。



いったいどれくらい待っただろうか。
小さかった船はこちらを目指ししだいに近づいてきた。
そして青かった空が紅い色に染まり夕暮れが迫るころわたしの立つ浜辺まで到着した。

懐かしい船は多少木材が取れ、帆はあちこち破れていたが、致命的な破損は見受けられなかった。
まだ長い航海にじゅうぶんたえられそうだ。 船長は船から降りてくると目を見開いてわたしのもとにかけよった。
「王子無事でございましたか!ああ、ひどい格好をされておいたわしい。
昨日の嵐のなか手をのばせなかったことをどれほど後悔したことか!」
「船長。よく来てくれた。まさか気がついてもらえるとはな」
「それが海面にただよう王子の服が見えて、まるでその服が意志を持つかのように移動していくので思わず追ってきたのです」
ああ、うすうすわかっていたが、やはり人魚姫が船を導いてくれたのだ。
彼女にはいちどならずにども助けられた。
だがわたしは思いがけない助けに喜びを感じるよりも、人魚姫は今どこにいるのか気になった。
人魚というのははばかられて、そのちかくに娘がいなかったか聞いた。
「いいえ、誰も見えませんでした」
今度こそ本当に行ってしまったのか――…。
胸にずきりと一抹の寂しさがよぎった。
彼女がいれば、ともに船にのせてわたしの国に連れて帰りたいとまで思った。
そしてそのように考えた己の浅はかさにすぐ苦笑した。
ばかなことを。
人魚が海水も足もないのに、陸で暮らせるものか。
名残惜しむ間もなく人魚姫はいなくなってしまった。
最後にもういちどありがとうといえなかったことが悔やまれた。

「それにしても王子、この島にいらっしゃったとは。
ここは近隣諸国ではまだほとんど知られていない名もなき無人島で、誰も近寄りません。
たとえここに流れ着いても、生き延びるのは難しかったでしょう。
いやあ、きのうのきょうであなたさまを発見できて何よりです。さあ、船にお乗りください。
今度こそわれわれの国に帰りましょう」
「―――ああ。帰ろう―ー…。ひどく疲れてしまった……何十年の年月がたってしまったかのように感じるよ―ーー」
歩み寄ろうとするとふと何かの気配を感じたような気がしたので振り返った。
なんと、わたしの帰還を浜辺の百合の花たちが見送ってくれている。
真紅の太陽の色に染まりながら強い風に揺られ、まるで人が手をふっているかのように激しく左右に揺れていたのだ。
急に思い立ちその中の百合を一本摘み、持ち帰ることにした。

一日足らず、ほんのわずかな時間滞在した島を出て、船に乗って出発した。
だが島を離れても、小さな人魚姫の存在は想像以上に大きすぎるほど膨らみ、美しい笑顔が胸に焼きついてはなれなかった。
笑顔だけではない。
彼女のやわらかな手の感触、華奢な身体、愛らしいきれいな声。
そして何よりわたしと生きるといってくれた優しさがわたしの心のなかに刻み込まれ、
それは船で旅するあいだずっときえなかった……。






back