慈雨



 暗闇の中で天をあおぎ、限りなく降り注ぐ雨を眺める。久しぶりのこの大雨は、おそらく朝まで降り続けるだろう。
 雨はこの世でもっとも私にとって心地いい現象だ。音も感触も、形も、香りも、味も、何もかもが。全身に浴びていると、この世界中で今、自分だけのためにこの雨が降っているような錯覚におちいる。ほんの少し口を開けると雨が流れ込んできた。何よりのご馳走だ。あの閉じ込められた絶望の部屋で、私は雨を常に待ち続けた。食料よりほしかった水。けれど救いの手は差し伸べられず、長い苦しみの中飢えながらひとり命を落とした。あの時の屈辱は何千年時がたとうがいつまでたっても消えることはなく、むしろ苦しみを増幅させていた。夜降る雨は私が私である理由、あの時の記憶を呼び覚ましてくれる。これからも私を処刑した人間たちへの憎しみの感情をぜったいに忘れたくないのだ。あの方に救い出されてこの土地に連れてこられてから、私はずっと憎しみを糧にして生き続けている。そのことに誇らしささえ感じていた。これからもそれでいい。そう思っていた。
ひとりの人間に出会うまでは。

 どれくらい無心で全身に雨をあびていただろう。
 背後で突然こつこつと、誰かが私に忍び寄る足音がした。
 振り返らなくてもわかる。そう、馴染みの少女の気配だ。
くるりと体の向きを変えると、思った通りの娘が白い傘をさして立っていた。大輪の咲き誇った薔薇のような傘の位置を少し変えると、傘のなかから輝くような白い顔があらわれた。
「デモリリス、やっぱりここにいたのね――。さっきなんとなく目が覚めてしまって。あなたが来ているのを感じたの。この薔薇の前だと思った。ここあなたのお気に入りの場所ですものね」
雨音に混ざるようにオフェーリアの声が高らかに響く。そうだ、言われて気が付いた。ここはオフェーリアとはじめて出逢った薔薇が咲く場所だ。一本の株に、白薔薇と赤薔薇、異なった二色の薔薇の花が咲く。不思議な樹木だとはじめて目にした時感じて、薔薇など興味を持ったこともなかったのについ触れようとしたその時、オフェーリアに声をかけられた。そしてオフェーリアの指摘どおり、私はなぜか時折無意識でここに足を運んでしまう。過去に執着してしまう特性のせいだろう。
「オフェーリア、なんでこんな大雨が降る真夜中に庭園にわざわざきたのよ。しかも、この庭園は迷うほど広いのに、よく私がここにいるってわかったわね」
左手には傘、右手にはカンテラを持っており、カンテラの灯りに照らされ表情がくっきり見える。彼女はふふふ、とおかしくてたまらない、といういたずらっ子のような顔でほほ笑む。
 私はおかしなことを言ったつもりはないのに、この娘は会話中本当によく笑う。その笑みに心をかき乱される心地がした。
「ええ、わたしは特別な力を持っているわけではないけれど、それでもここは私の庭ですもの。わたしの管轄する大切な場所。この土地を、この庭を、自分の体の一部のように感じているの。だからなにか少しでも変化があれば、すぐ気が付くわ。真夜中に突然来てくれた悪魔の訪問客さんにもね」
 黙っているとオフェーリアが腕をのばし、彼女のほっそりとした長い指が雨を含んでべっとり濡れた私の黒髪をなぜる。結った髪を掬い上げるように何度も指を往復させながら私を見つめる。
「素敵な夜ね。私も雨は好きだわ。乾いた植物たちが潤い、彼らが喜ぶから。でも、ほら。あなた髪も服もこんなにびしょ濡れよ。濡れたままはよくないわ。今すぐ屋敷に行きましょう。リネンで拭いて乾かさなければ」
「放っておいて。何をいまさら、あなたも知っているでしょう。私は悪魔なのだから暑さ寒さなんて感じない。人間の体とは違うもの、風邪もひかないわ」
 ああ、暗闇でもわかる。彼女の瞳が今くもった。
 本当にやめて。いいのに。妙な同情などいらない。
 彼女は私の言葉にうつむき少しかがむと持っていたカンテラをそっと地面に置いた。そして次の瞬間白い大きな傘が一歩近づいた。そしてカンテラに引き続きそっと傘も地面に置く。目の前にすくっとオフェーリアが立ったのだ。
「―なにを」
 私の問いを遮るように甘い声でオフェーリアが囁くように、でもきっぱりと話しかける。
「いいえ、できないわ。はじめて会った時も言ったでしょ。私は見過ごすことができないたちなの。痛々しいあなたを見ていられない。だってあなた泣いているみたいなのですもの」
  そういって私の手をとり細身の体に合わぬ力でぐいと引き寄せ、驚くより先に私を抱きしめた。
 思わず私も彼女の背に手を回していた。なんて柔らかくて華奢な体。力をこめれば壊れてしまいそうなほどに。私の髪をなぜながら、骨ばった体まで撫でてくる。
「オフェーリア、なにするの」
「一緒に屋敷に行ってくれるまで離さない」
  本当に彼女は私を離そうとしなかった。強引に引き離そうとも思ったけれど、この強情な娘は引き離してもまたきっと抱き着いてくるに違いない。このままでは彼女がびしょ濡れになって風邪をひいてしまうのではないか。オフェーリアがさらに密着しながら言う。
「あなた震えているじゃない。さあ、怖がらないで。もう雨宿りしなきゃ。まず身体をふいて、それから着替えましょう。服はあなたの好みのものを用意するわ。体の中から温まるように熱い紅茶をいれましょう。お菓子もあるわ。スコーン、マドレーヌ、クッキー、今日私が焼いたばかりのものばかりよ。スコーンにつけるための薔薇のジャムもあるわ。あのね、真夜中に食べるお菓子ほど、背徳的で美味しく感じるものってないのよ」
 震えているのは寒いからじゃない。見通せないあなたのことが怖いから。それにああもう、嫌味かしら。食事の必要などない悪魔にとって味覚など無意味なもの。時間帯により変わる菓子の味わいなんてそんなのこの私が知るわけ、ないじゃない――!心の中だけで返事をする。
 一刻も早くくだらない会話を終わらせたくなって静かにため息をつき、敗北を認める。「・・・一緒にいくわ。着替えの服はまた漆黒でお願い」と告げる。オフェーリアまでびしょ濡れになり傘はもう用をなさなかった。オフィーリアはカンテラだけ持ち私は閉じた傘を持って互いの手を握りしめあって歩きはじめた。

  まるで二人とも濡れ鼠のようだと思った。着ている衣装はたっぷり水分を含みまるで鉄の鎧のようにずっしり重く、オフェーリアはさぞ歩きにくいだろう。その美しい顔の輪郭からは雫がしたたり落ちている。雨に打たれすぎたせいか、蝋燭のように肌はいつもより青白い。ざあ、ざあ、ざあ。雨の勢いはとまらず、さらにけたたましく降り続けている。まるでこの森林の中に舞台がありその演劇に興奮して大勢の人間が拍手をしているかのようだ。まるでこの世で私たちだけ生存しているようだった。そして今この瞬間に時が止まってしまえばいいと思った。

彼女が顔をぬぐいながら前を歩き、私がその一歩後ろで、ともに手をにぎりあって歩く。庭園の無数の彫像が私たちを無言で見つめている。複雑な迷宮のような薔薇園を潜り抜けてゆっくり歩いていくと、彼女が先祖代々受け継いできた古めかしい住まいが姿を現した。
「ふう、ようやく見えてきたわ。今日は少し遠く感じたわね」
オフェーリアが安堵の声でこちらを振り向き扉の方へ導く。ああ、いつもこうだ。この娘のなすがままに動いている。自分のことを口下手だなんて評価しているが、とんでもない。その話術に取り込まれ、崩国の十三災の私が操り人形のようになっている。

 屋敷に入ったら私たちはすぐに服を着替え、とりあえず濡れ鼠ではなくなった。そして髪を何回もぬぐった。オフェーリアは自分の櫛で私の髪をとかしてくれた。鏡台にうつったふたつの顔は、驚くほど似ていなくて笑ってしまった。「デモリリス、今日はじめて笑ってくれたわね」オフェーリアに答える。「――鏡にうつった自分が自分じゃないみたいでおかしかったのよ」
  先に私を丸テーブルの前の椅子に座らせ、嬉々として戸棚からお茶道具を用意する少女を眺めながら思う。
 ねえオフェーリア。
 あなたに出会ってからいつも自分が滑稽に思えるわ。私たちの関係はまったくおかしくてたまらない。だってそうじゃない?悪魔と人間が庭園で密会、その後はお茶会ごっこ。なぜこんなことをしている?花束をくれたあなたはいくらこちらが詰問しても、いまだに叶えて欲しい望みを言わない。最後まで取引が行われていない曖昧なまま、こんなにも私のそばにいる。そして私ばかり与えられているじゃない。本来ならばもうとっくに正式な契約者として、私はあなたの願いを叶えているはずだった。あなたは正式な契約者として隣にいるはずだった。それなのに――出会ってからもう何年も過ぎているというのに、自分のことなのに、私たちの“いつか”は見えず、わからないまま、そして変わらないまま。
 そう、あなたはいつまでたっても、その薔薇の花びらのような唇から、望むものを言ってくれない。
 待ちくたびれたわ。
 私のものにならない、私の愛しいオフェーリア。


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