眠れる翅

眠れる翅



 そびえたつ灰色の城の塔に、生まれつき足が不自由な王子が住んでいました。医師からは歩きたいと思う意志さえあれば歩くことはきっとできますと言われていましたが、王子は幼い頃から自分の身体の可能性をあきらめておりまったく歩く練習をしませんでした。
塔には世話をする従者が3人いるだけで話し相手もおらず、朝から夜まで退屈な日々を送っていました。
王子は広い部屋で横たわっている自分が嫌いでした。
「自分の足がいうことを聞かない。生きていることが嫌になる」
ある時塔の窓から入ってきた蝶が幸せそうに飛んでいる姿を見て、王子は自由に動くことができてなんと羨ましいと激しい嫉妬を感じました。
鼻先にきた蝶をさっと羽でつかみじっくり観察しました。
王子の手の平のなかでどんなにあがいても逃げることが叶わず、やがてぐったりとして動かなくなりました。
王子は羽虫があまりに簡単に捕まえることができて、またその身体の儚さに驚きました。
そしてぽつりとつぶやきました。
「……これはいい暇つぶしになりそうだ」
蝶の翅を見つめ誰もが見ればぞっとするような氷のような微笑みを浮かべました。
それから王子は従者に申し付けて毎日生きた蝶をとらえさせて、塔の部屋を飛ぶ姿を観察しました。
蝶はひらひらと舞い逃げ出そうと出口を探すのですが、窓はもちろん出口の扉も固く閉じられどこにも行けません。
一本の花もない部屋ですから、蝶はすぐ死んでゆきました。
 「あっはは、わたしより恵まれているものなどさっさと死ねばいい!」
一匹、また一匹と、蝶が死ぬたびに王子は部屋の壁に亡骸をはり、標本を作っていきました。
あでやかな蝶のコレクションがすこしずつ増えていきました。
けれど壁がどれだけ美しい蝶で彩られても王子はまったく満足することはありませんでした。


明日蝶を捕らえれば、その亡骸は1000匹目のコレクションになるはずでした。
悠々と眠っている王子のもとへ、いつの間にかきれいな女がやってきて、壁に貼り付けられた蝶たちをすべて眺めて、最後に哀しそうな瞳で王子のほうを見ました。なぜか王子は瞼を閉じ眠っているはずなのに、その様子がありありと伝わってきました。
思わず手をのばすと、女は消えていきました。暗闇の中で目をこらしましたが誰もいませんでした。
その女は次の日もやってきて、同じことが何日も続きました。
王子はきょうこそ謎の女を逃がさないように何がおこってもしっかり起きていようと決めていました。
寝たふりをしていると女の溜息が聞こえて、王子はそっと浮かび上がる白い手首をつかみました。
女は囁くように静かな声で聞きました。
「どうして蝶を捕らえてこの部屋に閉じ込めるのですか」
「悔しくて、悲しくて、憎いから」
気持ちを伝えることが不器用な王子はそれだけしか言いませんでしたが、女はすべてを理解しました。
女は足音もなく王子に近寄ると、顎をそっと持ちあげしっかりと目を見て言いました。
「ならばわたしがここにいます。怒りも憎しみも悲しみもすべてわたしにください。
そのかわり、もう蝶を捕らえることはやめてください」
その声があまりに悲壮だったので、今まで人に命令することしか知らなかった王子は、はじめて他人のいうことを素直に聞こうと思いました。
「一日一匹ずつ、蝶を針から抜いて土に埋めてあげます。よろしいですね」
「かまわない。もう飽きていたから。そのかわりにわたしがここにいろというかぎり、きみはこの塔に住むのだ。どこにも行ってはいけない」
王子は女に約束しました。

女は王子の部屋においてあったリュートを弾き、時には歌を歌いました。
女はリュートも歌もとても上手でした。女の奏でる音楽を聞くと王子は幸せな気持ちになりました。
不思議な女はいつも身体のなかから光沢を放っているような、どこか不思議な身体をしていました。
金粉がきらめく長い裾の青いドレスを着て、笑うと風もないのにまっすぐな黒髪が揺れました。
あるあたたかい日窓から鼻をくすぐるような甘やかでいい香りが漂ってきました。
「いい香りだ。何だろう」
「何だと思いますか。いっしょに見に行きましょうか」
え、どうやって行くのかと王子が聞く前に女は王子を抱きかかえ窓から飛び立ちました。
その時、王子は女が翅を持っていることを知ったのです。
 女の背には大空に同化するほどの青い4枚の翅が広がり、王子を優しく支えていました。
長いこと空を舞い香りのほうに飛んでゆくと一本の大きな木に花が咲いており、得も言われぬ香りが一面に漂っていました。
薄紅色の花は美しく満開で、どれだけ眺めても離れがたい魅力を持っていました。
女は腕をのばすと葉を一枚ちぎりました。
そして後ろについていた毛虫をそっと手にのせ、どう思いますかとたずねました。
王子は「醜くて気味が悪い虫だと思う。蝶とはまったく違う」と感じたままに答えました。
女はそうですね、と頷き返して一息つくと、緑の葉っぱの上に毛虫を戻しました。そして王子のほうを振り向きこれが蝶の本来の姿ですと言いました。
「卵から出てきて、一生懸命葉を探して食べて、毛虫から蝶の姿になったのです。どうか慈しんであげてください」女は優しくそう言いました。
葉の上でひたすら身をくねらせる毛虫の身体を見て、王子はまるで自分のようだと思わずにいられませんでした。
それから王子はたくさん果実がなっている木を見つけました。王子が取ろうとすると、女がそれは毒が入っている実ですと制しました。「食べられない果物があることさえ知らなかった」と恥ずかしそうに王子はいいました。それから2人は食べても無害な美味しい果実のある場所へ移動しました。王子は木から果実をはじめて自分でもいで食べ、川の水をさわり冷たさを知りました。
そして女からたくさんの花や草の名前を教えてもらいました。
鹿やウサギや鳥も女を見ると親しげにそばにやってきて、女と王子は森の動物たちと陽が暮れるまで遊びました。
夕陽に照らされながらまた王子は女に抱きかかえられ空を飛びました。
王子はきょう一日でさまざまなことを知り、自分の存在が小さく思えたことを話しました。
「あなたは何でもよく知っている。それに比べてわたしは何もできない。何も知らない。森の動物のほうが賢いのではないかと思ったほどだった」
「そんなことありません。これから知っていけばいいのです」
王子を見つめる女の微笑みは心をとかしていきました。
壁に飾られた蝶たちを最初は女が埋葬していましたが、やがて王子自身が毎日針から抜き土にかえしてあげました。
そして埋めるたびに己のした行動の浅はかさを恥ずかしく思うのでした。
それから天気のいい日はたびたび森や川に2人で出かけることが多くなりました。
女はできる限り王子に知っていることを教え、王子はその知識を砂が水を吸い込むように吸収していきました。
王子にとって女は家族で、友人で、世界で一番大切な存在になっていました。
一方の女は出会った頃こんな冷酷な人間がいることさえ信じられないと思っていましたが、今は素直に話しを聞く王子をとても愛おしいと思うのでした。

2人が出会って一年がもうすぐ経過しようとする頃でした。
塔のベッドに横たわり柔らかな光が顔にふりそそぐなかで眠っていた王子に女が囁きました。
「王子。幼く不器用なかわいい方。今、わたしが持つすべての愛を差し上げましょう」
王子はほんのひととき睡魔に襲われ眠りについていましたが、耳に届いた女の言葉に胸があつくなりはっと目が覚めました。
その瞬間王子は信じられないものを見て自分の心臓がとまったような気持ちになりました。
女の胸からおびただしい血が滴っていたからです。
そして女ははじめて会った時のように、悲しい瞳をしていました。
王子の従者のひとり王子が怪しいものにたぶらかされていると王さまに報告したのです。
王さまはその女を殺せと手紙で伝えました。
従者はわずかな隙を見て剣で女の胸を一刺しすぐ部屋を出ていきました。
「まだわたしのことを何も話していませんでしたね。わたしは蝶の女王です。もうお別れしなければなりません」
「いくな。約束しただろう」
「もう、命がつきようとしているのです。それにあなたは成長された。もう小さな虫をもてあそぶことをしない優しい人になった」
「そんな最後の言葉のように話さないでくれ。どうすれば助かる、わたしはどうすればいい」
「ごめんなさい。ずっとおそばにいたかった。別れの贈り物に、あなたがほしがっていたものを差し上げましょう」
一瞬部屋がまばゆい黄金の光に満ちました。女の大きな翅がはらりはらりと4枚とれました。
ふるえる手で嬉しそうに青い翅を差し出しました。
「これで、あなたはどこへでも自由に飛び立てます」
女はそう言うと王子の唇に自らの唇をよせ、美しく微笑みました。今まで一番美しい微笑みのままその姿は消えていきました。
「こんなものほしくない。きみがいればそれだけでよかった」と王子は生まれてはじめて叫びました。
言いながら握りしめている美しい青い翅の上に雨が降っていることに気がつきました。
それが自分自身の涙だとわかるまでしばらく時間がかかりました。
涙でぼんやりしていた視界が戻ると、女のいた場所には、星のように金色の鱗粉だけがきらきら光っていました。

王子は蝶の女王がいない空間は耐えられませんでした。
どこまでも飛べる翅をもらってももう行きたい場所もしたいことも見失っていました。
けれど翅を見ているうちにこれが愛しい女の身体の一部だと思いだし翅を思い切り抱きしめずにいられませんでした。
すると王子の身体が激しく光り翅は体内に取り込まれ背中に青い翼が広がりました。
王子は体全体に風を感じ、誘われるようにいつか二人で飛んだように窓から飛び立ちました。
そして夜になりかけた空の色を見ました。深い青い帳に金色の星が瞬いて輝いています。
懐かしいと王子は思いました。それはいつも女が着ていたドレスの色でした。
王子は広い空に向かって飛んでいきました。
飛べば飛ぶほどもう王子の心は空のように青く澄んで、この世で生きていくことになんの苦しみももっていませんでした。
この世の美しい青い色はすべて愛する女を思い出させ、まだ女を愛し続けたいと思っているから自分はまだ生きたいのだと気がつきました。
一晩中空を飛んだ王子は地面に翅を埋めようと思いました。
「そうだ。あそこがいい」
薄紅色の花が咲いていた木まで飛び、その根元に大きな穴を掘って翅を埋めました。
まだ満開の花は咲いていませんでしたが、薄紅色の小さな蕾が枝にたくさんついていました。
手を真っ黒にしながら翅を深く埋め終えて木の下で穏やかな顔で横たわっている王子のところへ、大きな鹿がやってきました。
知りあいのように堂々としており、どうやら前遊んだ動物の一匹だと王子は感じました。
鹿が王子の顔に角を近づけると笑いながら撫で話しかけました。
「どうしようもなくくたびれてしまった。生きることは疲れる。もしよかったら、わたしが住む塔まで連れていってくれるかい」
鹿は足を折り王子を背にのせると塔まで運んでいってくれました。


戻った王子はその日から自分の足で歩く練習をはじめました。
松葉杖を使い、長い時間をかけて一歩一歩、前に向かって進み始めました。
「花の季節になったらきみに会いにいくよ。待っていてくれ」
2人で見た満開の薄紅色の花を歩いて見に行くために、王子は生まれ変わってまたあたらしい人生をはじめています。
その木の下ではいつも蝶の女王の翅が眠っています。


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