涙姫の湖

涙姫の湖



ふくろうが鳴きはじめた夜の森から誰か歩く靴音がしてきます。
薄暗い森の奥から灯りをもってやってきたのは商人をしている旅人でした。
はじめてこの国へ来たがなんだか少し不気味な森だな、と旅人はおもいました。
彼は国から国へ薬や布をもって商売している途中で、この森の中を通りすぎようとしていました。
 
突然どこかで悲しげに泣いている女性の声がしたので旅人は立ち止りました。
「誰かいるのですか――」
返事はなく、かわりにどこかでぱちゃ、と水のはねる音が聴こえてきました。
旅人はその音がする方へと歩いてゆきました。
しばらくゆくと蒼い空をうつしとったような広い湖が目の前にありました。
「やあ、これはきれいな湖だ。水をのませてもらうかな」
喉がかわいていたので湖にしゃがむと両手ですくって口をつけようとしました。
飲もうとしたその時誰かの気配を感じてふりむくと、そこには見知らぬ女性がたっておりました。
美しい女の人はいいました。

「私はとても悲しいのです。だから一緒に泣いてくれませぬか」
女の人は悲しい声でそう語りかけました。
 
いきなり不思議なことを頼まれた旅人はどうしたものかと困りました。
しかしこのきれいだけれども悲しい目をした人を見ているとどうにもやりきれない気持になりました。
「悲しくないのにいきなり泣くことは私にはできませんが、どうしてそんなことをいわれるのか教えてくださりませんか」
女の人はため息をつきました。何もいわずただじっと見つめてきます。
 
突然旅人は誰かが泣く声を耳にしました。
誰だろうとおもって探してみると、ふと湖にうつった己の顔がみえて、自分自身が泣いていることに気がつきました。
彼はいつしか両手をかかえて泣いていたのです。
どんなに苦しいほど泣いても涙がとまることはありません。
涙がながれてゆくたびに今までの楽しかった思い出や大切な人との思い出がなくなっていくような感覚におそわれました。
旅人の嗚咽がもれ森にこだましています。
それは胸をかきむしりたくなるようなとてつもない恐ろしさでした。
 
どれほど泣いていたのか、つかれてきって横たわる旅人のそばにはあの女の人ではなく自分と同じくらいの男がたっておりました。
男はもっていた革袋から水をわたしてくれて、旅人に話しかけました。
 
「危ないところでした。私はこの森に住むきこりです。この湖に近づいてはいけません」
 
なぜこんなところに美しい人がいて、私は泣きたくないのに涙がこぼれていたのか、旅人はわけをたずねました。
きこりはぽつりぽつりとはなしはじめました。
 
「もう十年以上昔のことになります。この国に生まれたあるお姫さまは美しいお城に住んでいました。
 何の不自由もなく、美しさ、賢さ、聡明さ、すべてをかねそなえているお方でいらっしゃいました。

けれども姫さまは幼い頃から、太陽がのぼってからからその陽がおちるまで、悲しいことばかり考えていました。
そして悲しくなるといつも宝石のような涙をほろりとながすのでした。
家来が姫の涙を記録したところ成長するとともに涙の量はふえ、泣いている時間もながくなっていきます。
そのため、いつしかみなが姫さまのことを涙姫と呼ぶようになりました。
 
涙姫さまはどんなにか我々が喜ぶものをみても喜ばず、むしろ哀しみのたねを見つけてしまうお方でした。

“なぜきれいなお花はいつかはかれてしまうのかしら。悲しいわ。
 なぜ国と国があると人々は戦争ばかりしてたがいに傷つけあうのかしら。悲しいわ。
 なぜおおくの人々がこんな私に家来として仕えてくれるのかしら。なんだか悲しいわ。
 なぜ命ある動物や植物をたべなければ人は生きてゆけないのかしら。ああ、悲しいわ。
 家来に病気のこどもがいるわ。まだ生まれてまもない赤ん坊なのに。ひどく悲しいわ。
 父も母も私をみると悲しくてしかたがないといっているわ。申し訳なくて悲しいわ。
 なぜわたしはくる日もくる日もこんなに悲しいことばかり考えるのかしら。本当にとても悲しいわ”

窓辺にすわっていつもこんなことを話していたそうです。

その涙姫さまが、たったいちにちだけ、泣かないことがありました。
それは姫さまの最愛の母君が亡くなられてしまった日のことでございます。
家臣が今までにないほど泣くにちがいない姫さまを、どのように慰めるべきか考えていたところに涙姫さまがきました。
でも想像していた号泣する姿ではなく涙姫さまは泣いておられません。
どのような表情も感じられない蒼白い顔をなさっていたといいます。
そして一言いいました。
お母さまのためにお花をつみにゆくわ、と。
姫さまは今までにないほど毅然として、はっきりと告げられました。
とめようとする家来もふりはらいひとりきりで森へきたのです。

あるいて、どこまでもあるき続けて、いつしか森の真ん中まできた涙姫さまはそこで一輪の花を見つけました。
母君さまがすきだったその百合をそっと手折り、母君のために、ようやく泣くことができました。
花を見るまであまりの悲しみに心をなくし、泣くことさえできなくなってしまっていたのです。

姫さまは泣いて、次の日も泣いて、さらにいつまでも泣き続けました。
いつの間にか姫さまの前には大きな湖ができていました。
姫の涙によってできた涙姫の湖でした。
湖に顔をうつした姫さまはそのままたおれるように水に飛び込みました。

今ではどこからかやってきた魚たちと一緒にこの湖の中で暮らしているのです。
湖の底からうかんでくる小さな気泡は姫の涙だといわれています。
数十年も森に住む私さえこの湖に近寄るとわけもなく深い悲しみにおそわれて涙がとまらなくなることがあります。
涙姫さまはともに涙をながす相手をさがしていらっしゃるのでしょう。

そうそう、そののちお城では姫の弟君が政務をおこなっていらっしゃいます。
弟君は国の人々に、いつも楽しいことを考えて笑っていなさいと命じられています。
今でこそ笑いのたえない国といわれております。
しかしその昔に笑顔でいることを知らない姫さまがいたことを、国中の人々は誰も忘れてはおりません」

湖について話しおえると、きこりは親切に森をぬける近道をおしえてくれました。
「この森は熊や狼などの獣もいますから、お怪我のないように旅をしてください」
彼がいってしまうと旅人はふたたびひとりになりました。
そして悲しい姫をおもい声もなく涙ぐみ、湖にむかっておじぎをしました。
もう姫の姿は見えませんでしたがまた誘うような水音がきこえてきたような気がします。
しかしここにいてはいけません、ときこりがいっていたことをあわてて思い出しました。

すぐに森をぬける道をめざして歩いてゆき、湖はしだいにどんどんはなれて、やがて見えなくなりました。

涙姫さまの悲しみは癒えぬまま今でも湖は大きくなっているといいます。
姫さまが手折ったあの百合は、哀しみをなぐさめるかのように数えきれないほど湖のまわりにさいています。
その白い花びらにはいつどきここを訪れてもかがやく露がいくつもひかっております。
それは涙姫の流した涙とよく似ていて、まるで花の涙のようにみえるそうです。
 


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