うさぎの神さま

ある農村にとてもなかのよい夫婦が住んでいた。暮らしは貧しく食事はいつもきまってパンとスープだけだったが、ふたりともお互いを大事にしておりとても幸せな生活を過ごしていた。
だがあるとき妻が謎の重い病にかかってしまった。歩くのも困難になりいつも全身が苦しくてたまらない。高名な医者に見せても治す方法がわからないと匙を投げられてしまった。
妻は咳をしながら「わたしは明日にでも死んでしまうのかもしれない」と、悲しそうにつぶやいた。夫はいたたまれなくて、愛する妻になにかしてあげたいと思った。
そして妻の手をにぎりながら聞いた。「妻よ、なにか食べたいものはないか」
妻は「あなた、うさぎがほしいわ。うさぎのとろけるようなやわらかい肉が食べたい。わたしたちの思い出の結婚式で食べたうさぎの肉がとても美味しかったから」とこたえた。
「よしわかった、かならずうさぎの肉を食べさせてあげよう。お前はベッドでうさぎの肉をどうやって料理するか考えておいで」といって男は網や籠を準備した。
そしてうさぎを求めて男は森へ狩に出かけた。お金があれば町の肉屋でうさぎを買うこともできたが、そのたくわえもなかったのだ。森のなかであちらこちらを走り回って探したがなかなかうさぎが見つからなかった。
「ああ、もし今神さまがあらわれてひとつだけ願いをかなえてくれるなら、妻の病を治してもらえるように頼むんだがなあ。高い身分も、金銀財宝も、ほっぺたが落ちるような御馳走も、なにも望まないんだがなあ」
切株に腰かけてやすんでいると、草原からぴくぴくと動く茶色の2本の長い耳が目にはいった。
まさかと思いそっと近寄ってみると、ようやく探していたうさぎがぴょんぴょんと元気よくはねていた。まだ若いうさぎでしかも太っており、男はこんないきのよいうさぎの肉を食べたら妻もきっと元気になるだろうと、いそいそと捕らえる準備をした。
網をしっかりもつとかまえ、うさぎめがけて振り下ろしえいやっとかぶせようとした。
だが、うさぎのほうがわずかにはやく動き、逃げられてしまった。
それでももちろんあきらめようとは思わず、男は今度こそとうさぎににじりよった。
するとうさぎもまた距離をとるようにぴょんぴょんとはね、遠のいて行く。
こんな調子で男と小さな獣と追いかけっこしていたが、うさぎはなかなか足がはやくどこまでいってもなかなかおいつけなかった。
ぜいぜいと息を切らせあとをついてくる男を見て、うさぎはようやく立ち止まった。そして男をじっと見つめると、鼻をならし、ほんのすこし首をかしげた。
「だんな、なんでおいらをそう必死に追いかけるのかな」
驚いたことにうさぎが言葉をはなした。イライラしている様子で耳をぴくぴくさせ足をタンタンとならした。
「おいらこう見えても忙しいんだぜ。人間と遊んでいる暇はないの」
男はびっくりしたが、うさぎのいうとおり追いかける理由ををはなした。
「うさぎよ、なあ。わたしの妻が病にかかって今にも死にそうでな。死ぬ前にうさぎをどうしても食べたいという。だからおまえ、どうか犠牲になってその肉を妻に捧げてくれないか。頼むよ」
うさぎは、事の次第を聞くと、男の妻への愛情に深く感動したようでさめざめと涙を流した。
「ああ、そいつは泣けるねえ。奥さんの身体がそんなに悪いとは。病気ほど恐ろしく無慈悲なものはないよ。あんたは情が深い優しい人間だ。まったくなんていい話だ」
「おおそうか。わかってくれるのか。よし。ではおまえの肉体をくれるのだね」と男はたずねた。ものわかりのよいうさぎで助かった、そしてこれで約束のものを持って帰れると安堵した。
するとうさぎは笑って舌をだしあっかんべーをした。
「冗談じゃない。それとこれとは話が別さ。あばよ」
さきほどの涙と同情はどこへやら、うさぎはまた逃げようとした。
男はここで逃すものかとあわてて腕で捕らえようとするとうさぎも本気になったらしく、力強い2本の足で腕を蹴りつけた。
「おいらの命はおいらのものさ。どんな事情があろうと、見ず知らずの他人にやるわけにはいかない。なぜかっていうと、あんたと同じようにおいらの帰りを待っているかわいい妻がいるからさ」
そしてなんとうさぎの耳がいきなり鳥の翼のように羽ばたき始めた。耳はばさっばさっっと力強く羽ばたき、うさぎの全身が空中にふわりと浮いた。
さすがにこれは予想外のことで男はぽかんとして見守っているしかなかった。
「土産にはおいらの肉のかわりにこのことでも話しな。さあ、おいらは腹がへったから帰るよ。きょうのメニューはおいらの大好物のクローバのサラダだって妻がいってたな。じゃあなだんな。奥さんによろしく」
うさぎは陽気な鼻歌を歌いながら長い耳で空を飛んでいき、そびえる木の茂みに入ってすぐ見えなくなってしまった。
それ以上追いかける気持ちはなくなり、男はとぼとぼと妻のもとへ戻った。
「すまない、うさぎを捕まえることができなかった」
「そう、いいのよ。あなたのその気持ちだけでじゅうぶんよ。ほんとうにありがとう」
「だが実に奇妙な人語を解するうさぎだった。悪魔の手さきかと思われるほどに」
「あなた、なにがあったの」
男は椅子に座るとベッドで横たわる妻にうさぎのことをはじめから最後まで話した。
すべて話し終えると妻がこきざみにふるえだした。男は病が悪化して痙攣を起こしたのかと思って妻のそばにかけよった。
「どうした妻よ、だいじょうぶか。苦しいのか」
「いいえちがうの。なんておかしい話なの。だめ――もう我慢できない。あっははは。あはは。うふふ」
妻はベッドからおり床をたたいたり壁をたたいたりして一晩じゅう笑い転げた。そして死んだようにぱったり眠ってしまった。
そして翌朝男が目覚めるとなんと妻の病はすっかりよくなっており、以前のようにパンとスープの朝食を作れるほどになっていた。
久しぶりに夫婦で楽しく食事をしながら不思議なうさぎのことを話し合った。
「あなた。その空飛ぶうさぎは悪魔じゃなく、神さまが使わしてくださった救いのうさぎなのかもね。わたしうさぎの話を思い出すたび身体が軽くなって、楽しくて仕方がないの。病気のもとがどこかへ飛んでいってしまったみたい」
「ああ、そうかもしれない。空を飛んでいたから天使の一種だったのかも。当初のもくろみとはちがったが、何にせよおまえがこんなに回復したのはうさぎのおかげだ。感謝しなくては」
妻はそれ以来ずっと健康になり、夫婦はうさぎは命を助けてくれた神さまと考え、2度と捕らえようと考えることもなく、また一生食べることもなかった。
病にいちばん効くのは薬や食べものではなく、笑いなのかもしれないというお話。