31.鏡

31.鏡





むかしむかしのこと。ある国のはずれの素朴な生活を営むしずかな村に、とても優しい娘がありました。
容姿も村の誰よりも器量が良く、なめらかな陶磁器のような肌も、たっぷりとした満月のように輝く銀色の髪の艶やかさも、きわだってすぐれていました。
けれどもこの娘はたいそう気が弱く、自分の言いたいことが伝えられない大人しい気性で、そして家もたいそう貧しかったために、周囲の人間からいじめられてばかりいました。

そんなある日、少女は運び番として働いている料理店の裏のごみ捨て場で、一枚のちいさな鏡を拾いました。
家に持ち帰り古ぼけた鏡を丁寧に洗いほこりをとって、いまは亡き母のシルクのハンカチでふいてやると、みちがえたようにきれいになり、ものをうつせるほどあざやかな鏡だとわかりました。

「きれいになったら、なんて素晴らしい鏡に見えること。この世で一番美しいと言われている隣の国の王妃さまが使っていたお品物みたい」

思わずうっとりと鏡を撫でそう言うと、鏡がとつぜん光り輝きました。
驚いて鏡を落としそうになった少女に、あわてないでと、誰かが優しく言いました。
それはなんと手に持っている鏡でした。
「あなたは、わたしがこれまで見てきた誰よりも美しい。この村でも一番美しい。
だからもっと自分を愛してあげなさい。わたしはいつでもあなたの味方です。さあ笑顔をみせてください」

今まで面と向かって褒められたことのない少女は、頬を染めながら鏡の言葉を素直にきいて、とても喜びました。

「あなただけよ。そんなことを言ってくれたのは。うれしい……」

毎日鏡に褒められて、少女はやがて、自分に自信をもつようになりました。
鏡の言葉を耳にするたびにこやかに笑うようになり、自信をもつとともに、今までの卑屈な考えがなくなり、
日陰に咲く花のように隠れていた本来の美しさが眼にみえてあらわれるようになりました。

とある秋の日、村の収穫を祝う祭りがおこなわれました。
酒場で特産品のりんご酒を近隣のえらい方々に運んで行ったところ、領主の目にとまりました。
それは誰もがうらやむ熱心な求愛で、シレーヌは領主の言葉を信じ結婚し、幸せになりました。
けれど、それは永くは続きませんでした。

結婚生活が半年経った頃、夕食の後召使を下がらせて、領主は詰問しました。
いつも森にひんぱんに出かける妻を疑っていたのです。

「なぜ森にいくのだ?男と密会しているのだろう」

何という誤解かと、シレーヌは憤りながらこたえました。
「いいえ。それは誤解です。ぜったいに違います。かわいらしい動物と遊んでいるのです」

シレーヌの返事はほんとうのことで、昔からずっと友達のいなかったシレーヌは、森にいって小鹿やうさぎたちと遊んでいました。
けれども結婚したばかりの時から楽しそうに森へ行く妻が許せずにいた領主は妻の頬を激しく打ち、その時男の爪が膚にくいこみ、切り傷から血があふれました。

その時頭に血がのぼった少女は、もはや、大人しい慈愛にみちた少女ではなく、誰よりも貪欲に美を求める気性の荒い女性でした。

「わたしの顔に、なんてことを……。よくも、よくも、わたしの膚に傷を作ってくれたわね」

その晩シレーヌはベッドに座り込み鏡に向かい、頬につけられた赤い線を見せながら囁きました。
傷つけられた顔より傷んでいるのは心でした。

「鏡よ、鏡。おまえはわたしの顔を見てどう思う。あの男、ひどいでしょう。わたしのこと愛しているっていったのに。
愛しているなら、こんなこと、するはずがない……」
「ああ、シレーヌ。おいたわしいこと。あなたの美しさを損ねるものなど、この世に存在していいはずがありません。わたしはあなたの味方です。
その男に罰をあたえてやりましょう」

翌日、シレーヌは領主を殺しました。
毎夜飲んでいるりんご酒に毒を混ぜておくだけで、あとは何もせず、屋敷が大騒ぎになるのを待っていればいいのです。
あまりのわが手による殺人の成功ぶりに、いまは亡き領主の部屋で、ひとり大笑いしました。
こうして彼女は毛皮も宝飾品も思いのままにできる財産を手に入れました。

けれど、数カ月もすぎると屋敷での贅沢を味わい尽くしてしまい、何もかもが物足りなくなってしまいました。
彼女はさらなる美貌と地位と権力を求めました。

ある日、咲いたばかりの薔薇よりも美しいと誰もがみとめていた隣の国の妃が重い病にかかり死にました。
王はのこされた娘、白雪姫のあたらしい母になってくれる女性を探しているときき、シレーヌはその舞踏会に脚を運びました。

緊張で脚がふるえるシレーヌを、鏡はやさしく励ましました。

「あなたは、誰より美しい。ドレスの裾に隠された脚とて、誰よりも美しい。
踊りも優雅で集まった女性の誰もかなうはずがない。
だから、自信をもって踊ってください。わたしはあなたの味方です」

その言葉に気持ちを高揚させて、シレーヌは誰よりも綺麗に踊りこなすことができました。
美しいだけではなく、賢く、教養もあるシレーヌを見初め、王は妃にすると発表しました。
こうして一介の村娘だった少女は、もっとも光栄とされる大国のお妃になるまでになりました。

王冠をかぶせられるとき、これでようやくすべてを手にいれることができたと、ひとり心から微笑むことができました。

そうしてシレーヌは城で暮らすようになりましたが、気に入らないものが毎日目にとまりました。 それは白雪姫と呼ばれ大切にされている王の小さな娘でした。
シレーヌは白雪姫を一目見た時から、わたしはこのこどもがきらいだ、そう思いました。
不幸と苦労を味わった己の子ども時代と、姫として愛されて暮らしている白雪姫をくらべずにいられませんでした。
考えた末、王が出かけていない日、白雪姫を森へ追い払うことにしました。
もう二度と戻ってこないようにと、若い忠実な狩人に殺害も命じました。
シレーヌは王妃として絶大な権力をふるうようになり、帰ってきた王が白雪姫の所在をといつめても、かろやかに知らない演技をしたので、いつしか姫の事を覚えているものはわずかなものだけとなりました。


王は愛しい娘である白雪姫を忘れられないまま数年後に前王妃と同じ病で亡くなり、城ははれて王妃のものとなりました。
好きな遊びを好きなだけして、男女問わず気に入った人間がいれば、玩具店で人形を買うように、好きなだけそばにおくことができました。

時が過ぎゆき、シレーヌは毎日鏡を見て暮らしておりました。
春も冬も鏡にはかわらずととのった顔立ちがうつり、いつも美しい自分を見ているとそれはとっても幸せでした。

ところがある日、遠い国の使者を出迎えたとき、とんでもないことがおきました。
使者は贈り物として、何枚もの衣装を差し出しました。
まるで老婆が着るような色あせた服を、お妃さまにお似合いかと思い持参しました、と言いました。
作りは贅沢で悪くありませんが、宝石もドレスもついていない、木から離れて地面でくさってゆく枯れた落ち葉のように魅力がないドレスです。

「まあ。これでは、まるで、老人の女性のものではありませんか。私の趣味となんて違うこと」
「ええ。しかしながら、今のお妃さまの御年に、ふさわしいお召し物かと……色や形は、まあ、落ち着いた品のあるものですね。けれど私共も、あらかじめお妃さまの御年を聞いておりましたので、国でたくさんの時間をかけて作りました最高品です」

まじまじとこちらを見つめる偽りのない瞳を見て、この使者は冗談で言っているのではないとわかり、きゅうにシレーヌのなかでなにかがはじけました。
鏡だけを相手に毎日暮らしてきて、その環境にたいへん満足しきっていたので、今自分が何歳か、わからなくなっていたのです。いいえ、考えることさえやめていたのです。
“そういえば召使も最近ずっとわたしにほめたたえる言葉をいってくれない――いったいいつ頃から?
いまのわたしは、ほんとうに美しい……?”
もうたえきれず髪をふりみだして広間を飛び出すと、自分の部屋に向かいました。

鏡を手にもつと、いつものように陶器のように美しい肌と硝子のように澄んだ瞳の女性がうつっていました。
そのとき、誰よりも慣れ親しんだ親友だと思ってきた鏡に、はじめて憎悪の心が芽生えました。
「鏡よ、鏡。わたしは、ほんとうはどんな姿をしているの?わたしは今いくつになっていた?」

憎々しげに見つめられながらも、鏡は、真実をのべるのはいやでした。
たとえ事実はどうであっても、この方を世界一美しい女性と思っているのは、捨てられていたところを助けてもらって以来ずっと変わらない、鏡の本心だったからです。
残酷なことにシレーヌは50歳を過ぎており、とくに若かりし日の美しさは薄れ肉体が老いていることは知らせたくありませんでした。

「鏡よ、鏡。おまえがわたしを愛しているなら、ほんとうのことを教えてくれ。
わたしのほんとうの姿をうつしておくれ」

鏡はなにもこたえませんでした、けれど心のなかで鏡はあなたのお顔は、世界一お美しいですと囁きました。
やがて鏡面がごくゆるやかに紫色にかわっていき、そこにうつしだされたのはやせ細った輪郭が見えたような気がしました。
もっとはっきりうつして、と叫びました。
こんどこそくっきりとあらわれたのは、しわとしみだらけの膚に、白髪だらけの老女にほかならぬ姿でした。

「これは誰だ!わたしなのか……!」

あまりの自分の醜さに怯えた妃は狂ったおたけびをあげ、鏡にむかって林檎のかたちをかたどった煌めく宝石箱をなげました。

紅玉でできた宝石箱が命中すると鏡にひびが入り、こなごなに割れていき、それとともに、老婆の己の姿も見えなくなりました。
鏡は割られて魔力を封じ込まれ、もう人間のように話すことはできなくなりました。
魔法の鏡の命が事切れた瞬間でした。

力なくよろめくように床に座り込んだ妃は、鋭くとがった鏡の破片のひとつを一枚骨ばった指ですくい取りました。
ちいさな破片にまだ己の姿はうつし出されており、その顔はこれまでの人生で見た誰よりも醜く見えました。
喉にそれをすっとあてると、自害しました。

赤い血が首からしずかにどろりと流れ落ちていき、ふってきたばかりの真っ白な雪のような絨毯に、じょじょに染みを作ってどんどん広がっていきました。

部屋の絨毯が一面すべて深紅になった頃、ようやくいつも辛抱強く仕えている侍女がやってきてシレーヌが倒れている姿を発見しましたが、
もう手当のほどこしようもなく、昔のように美しくもなく、ただ見る者すべての哀れみを誘う光景でした。



3日後、小雪のふる朝、シレーヌの葬儀がとりおこなわれました。
倒れた妃の周辺に散らばっていた鏡の破片も、ひとつのこらず集められて、ともに埋められることになりました。
侍女が鏡の大小の破片をすべて集めてみると、55歳だったシレーヌの寿命と同じく、ちょうど55個だったということです。

漆黒の喪服に身を包んだたくさんの身分の高い弔問客のなかにまじって、同じように漆黒の服とマントで身を隠すようにあらわれた物静かなたたずまいの女性がいました。
かわいい林檎のような唇をした誰もがふりむくような愛らしい容姿の女性は、ほかでもない、成長した白雪姫でした。
その昔妃の命令で狩人に森に連れていかましたが、彼は少女を殺すにしのびずそっとかくまい、シレーヌに新鮮な獣の臓器と街で買った黒髪の鬘を渡し欺き、少女は生き延びました。
そして今、数十年ぶりにようやく城に戻ってきたのです。
とうに姫の暮らしと名前を捨てさり狩人と慎ましく幸せな家庭を築いていたので、かって自分が住んでいた素晴らしい城を見上げても、
何の未練もありませんでした。
永遠に目覚めないままの義理の母親に林檎をひとつそなえると、雪の結晶が林檎におちて白い果実に変えていきました。
最後まで誰にも白雪姫であることは告げず、いちども振り返ることなく、
またもときた雪のふる森へ去っていきました。


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