32美

日曜ののどかな午後3時、買ったばかりの美味しい紅茶を入れようとケトルでたっぷりお湯をわかしている時でした。
そろそろ沸いたかしらとソファから立つと、ピーンポーンと高らかなチャイムの音が聞こえました。
せっかくのティータイムなのに面倒くさいこと、居留守でも使おうかしらと思うけど、立ったついでとガスのスイッチを切り玄関に向かいます。
玄関ドアののぞき穴からうかがうと、満面の笑みをうかべた小奇麗な女性がたっていました。
黒いスーツを鎧のようにきちっと着こなし同じ色の黒い大きなバッグを肩にかけていました。
見たことがない人ね、気を付けましょうとわたしのなかの警報機がちかちか鳴りました。
この方の雰囲気からおそらく宗教の勧誘に違いないと思いました。
わたしは神様に興味がありません。自分のことでていっぱいですし、本当に困ったとき助けてくれるのは結局自分自身ではないでしょうか。 それに世界中には神様があまるほどあふれているくせに、昔から戦争や貧困が一向になくならないのを矛盾に感じひどく悲しく思います。
「こんにちは。おくつろぎのところ突然すみません。ほんの少し、お時間よろしいでしょうか」
「あの、わたし宗教には興味がありませんので」
「いえ、いえ。そういうものではありません。化粧品を紹介させていただきたくて。とてもかわいいおすすめのものをたくさん持ち歩いています。もし購入の件になってもクーリングオフをしてもらってかまいません。それに話を聞きたくないとお考えになった時点で警察に電話してもらってもかまいません」
そういえばファンデーションの残りが少なく、チークもあとわずかでなくなりそうだったことを思い出しました。
先ほどの考えはどこへやら、わたしは玄関のドアを開けてどうぞ、とにこやかに彼女を受け入れました。
持つものと持たざる者。おたがいの利益が一致したときは、きっと素敵な結果が待っていると思いましたから。
失礼いたします、ありがとうございます、と女性は慇懃無礼に入ってきました。
近くで見るとお化粧では隠し切れなかったであろう薄いしみや小じわが刻んでいて失礼ながらドア越しに見た時よりも老けた印象を持ちました。
おそらく50歳代でしょうか。
柔らかそうなウェーブの入った髪をひとつに束ねていました。
足元を見ると靴もエナメル質で上品な黒でした。




改めましてと、今野という名まえが入ったキラキラした名刺を、キラキラした爪が光る手入れのいきとどいた手で渡されました。こういったおしゃれなことにうといわたしでも知っている有名なメーカーでした。CMなどでも可愛いモデルさんがこのメーカーの化粧品を宣伝している姿を見かけます。
思わず不思議に思ってたずねてみました。
「最近はコスメ販売の方も営業で各家を訪問されるのですか」
「いえ、会社の成績やノルマは関係なく、ボランティアのように好きでしているだけです。わたしは化粧が好きで同じようにお化粧を好きになって楽しんでもらいたいのです。購入されないお客様がほとんどです。気軽にデートの前に呼んでもらって、お化粧をさせてもらってもとても嬉しいですわ」
「そうなのですか」
今野さんはわたしのことをまじまじと見つめにっこり満足そうに微笑みました。
「本日はまだお化粧をされていないのですね。腕がなります」
「お恥ずかしいです。つい休日は何の化粧もしないでくつろいでしまいます」
「いえいえ。そういう女性のほうが多いと思いますよ。それではファンデーション、アイライン、チーク、ルージュとグロウをお塗りしましょう。せっかくですからつけまつげもしましょう。この口紅きれいな赤でしょう。夏の新色です」
「そうですね。その赤い色懐かしくてこどものころを思い出します」
そう、赤い色の思い出はランドセルです。
わたしがランドセルをせおえることができたのは10歳になってからでした。
はじめてこっくりとした赤い色のランドセルをもらった時の感動は言葉にできないほどです。

それにしてもよく大人まで生き延びることができたものだと、ふと自分で感心してしまうときがあります。
あまりにたんたんと語るのでよく驚かれるのですが、わたしは実の母親に虐待されていました。
蹴られる、殴られるのは日常茶飯事で、なぜか玄関から出ることを禁止されていました。
父ですか、ふう。それが物心ついたときから父親はいませんでした。
別れてしまったのか、逃げたのか、わたしには何の手がかりもありません。
足の踏み場のないごみの埋もれたなかで暮らしてきました。
時々あらわれるねずみや蟻が友達でした。蜘蛛やゴキブリさえも自分の話し相手になってくれる愛しい存在でした。
食事は日に一度なにか食べものがおいてあればましなほうでした。
悲しいほどに両親に愛情をもらえなかったわりに、わたしはそれなりに運の強い子供だったのかもしれません。
十分なものがあたえられなくても、それでもわたしは何かにしがみつくようにしぶとく生き続けました。
年月はわたしの心を和ませてくれ、いつもごみの散らかっていた部屋での記憶は灰色に沈み、いまとなってはノスタルジーと化しています。

「きれいな白い肌ですこと。それに磁気のようになめらかで。本当に、お化粧なんて必要ないぐらいですね」
「ええ、色が白いのは七難隠すと言いますから、ありがたいものです。陽にあたり日焼けすると肌が赤くなり、数日経つとまた白い肌に戻っていくのです。この身体をとても気に入っています」
「まあ、うらやましいこと。わたしも美白をこころがけているのですがなかなか効果があらわれなくて。生まれ持った肌の美は極上の宝物ですわ。きっとお母さまも色白でお綺麗なのでしょうね」
誰もがわたしに最初に会うと、この白い肌の色をほめたたえます。
耳に胼胝ができるほど聞いたお世辞なので実はそれほど嬉しくもありませんが、わたしは無言の笑顔で受け止めます。

母は毎日かわるがわる違う男性を家に連れてきました。どの人とも長続きはしませんでした。
優しい男、頭のよい男、怒りやすい男、よく食べる男、臆病な男、よく眠る男、女性のような男。ほんとうに個性豊かな人が何人も家にやってきました。けれど彼らがわたしとも話をしようとするときまって母が怒り狂うのです。だからみんなすぐそばにいる子どもを透明人間のように無視していました。
わたしも自分という人間は本当に見えない存在になったに違いないという気持ちで彼らを見つめていました。

わたしが大きく成長したころ、ようやくひとり、わたしに踏み込んで声をかけてくれたおじさんがいました。
母がコンビニで何か買ってくると言って出かけたあと、おじさんは待っていましたとばかりにすぐ手招きしました。
「娘がいたのか。しかもとてもかわいいじゃないか。きみ何歳?」とたばこを吸いながらたずねました。
「わかりません」
「少なくても7歳はこえているだろう?だったら小学校に行っている時間じゃないか。学校は?」
「行っていません」
「え?」
「だから、行ったことありません。わたし、生まれてからここから出たことがないのです」
「え、きみ。それって……」
おじさんはたばこをぽとりと落としました。そして見ていて気の毒になるほど真っ青になってどこかに電話しました。
それからあわただしくいろいろな人が来て、今までの生活を聞かれました。
わたしは子供なりにひとつひとつ丁寧に答え、それからあたたかい清潔な部屋で食事をもらいお茶をのませてもらいました。 
はじめて母と離れて暮らすことになり、ようやく食べものにも不自由しない人間らしい生活になりました。
わたしは名前も知らないおじさんに救われ、それ以来母とは一度も会っていません。この世の広い世界をはじめて知ることができたのです。
本当の自由の素晴らしさを知っている小学生はきっと今も昔も数少ないでしょう。

思い出にふけっていると今野さんは首にファンデーションを塗り始めました。わたしは首に痣がありますが、それを隠すことはしていません。
痣はかなり大きなもので塗っている時気が付いたはずですが、今野さんは一切聞きませんでした。
お察しのとおりこの痣も母につけられたものです。
これは火傷のあとですが、どのようにつけられたかについて詳細は気持ち悪くなる方もいるでしょうから割愛します。
おそらく母はこの痣のことなどこれっぽっちも覚えてもいないのでしょう。
母から受け継いだ顔と、消えない痣。整形する気持ちは全くありません。
そのふたつはわたしのアイデンティティーともいうべきもので、一生きってもきりはなせない過去の遺産でした。

唇にくすぐったい感触が伝わってきます。こんな風に誰かに顔をさわっていじられるのははじめてでした。
「終わりました。とても綺麗ですよ。もともと美人な方がさらにべっぴんさんになりました。いかがでしょうか」
今野さんは大きな手鏡を持ってくれて顔を映しわたしの反応を待っていました。
手鏡のなかにいつもと別人の自分がいました。
びっしりつけられたまつげ、くっきりした大きな瞳、赤黒く光る唇、不自然に血色の良い頬。
これで自分が先ほどより魅力的になったのか、わたしにはさっぱりわかりませんでした。
「なんだかお姫様になったような気分です」
そう答えるだけで精いっぱいでした。


わたしはファンデーション、チーク、ライナーを買いました。
買っていただいたので、こちらはサービスでプレゼントさせてくださいと今野さんは親指ほどの光る金属を差し出しました。
「これは開発中の口紅でまだ非売品です。旬の生のりんごからとった香料が入っているのです。それがとてもいい香りで、ぜひ使ってもらいたいですわ」
言いながら彼女がキャップをとると甘酸っぱい爽やかな果実の香りがぱっと満ち、わたしは思わずうっとりと目を閉じました。
 「わたしこの口紅を塗ると、いつも本物のりんご、食べたくなります」と今野さんは白い歯を見せて笑いました。
ありがとうございますと受け取ると、わたしは前から気になっていることを無性にこの人に聞きたくなりました。
「今野さん、美しさってなんだと思います?」
「こんな化粧をすすめているわたしが否定するようでおかしく思われるかもしれませんが、最終的に人間を美しくさせるのは、お顔の造詣や化粧ではないと思うのです。
芸能人に美しくても不幸な人生を歩んでいる方もいらっしゃります。
美って内面に誰もが持っていて、それでいて誰も気づかない奥深い場所に眠っているものじゃないでしょうか」
その答えに満足したわたしは首をこくこくと動かし頷きました。

紅茶をご一緒にとお誘いしましたが、それではと今野さんはまた黒い出で立ちで帰っていきました。
風のようにやってきて風のように去っていった人でした。
あらためてドレッサーに腰かけて先ほどもらった口紅をくるくる引き出しました。
そしてほんの少しだけ筆でとると、先ほど塗ってもらった口紅の上からさらにすっと一筋、唇に紅をさしてみました。
取り立てのような爽やかなりんごの香りが顔の前に広がりました。
その時わたしは母の顔を一瞬鏡にみたような気がしました。
白い顔に紅をさした能面に似ている女。
その女が笑っていました。冷たい光をおびた瞳でわたしを射貫くように見ていました。



月曜日、さっそく購入したファンデーションを塗り、アイラインを描き、チークをはたき、仕上げにりんごの香りのルージュを塗って職場に行きました。
同僚の誰もがわたしの顔を見て驚き、そして褒めてくれました。
「いい色の口紅ねぇ。あなた若くて綺麗だから、もっと濃い化粧をすればいいのにと思っていたのよ。いつも肌が白すぎて病気ぽかったわよ」
「ありがとうございます。でもここではマスクでどうせ顔を隠すので必要ないと思っていたので」
ああそれは確かにねえと、わたしより一回り上の先輩はエプロンをつけながら深く頷きました。
わたしもならってエプロンをつけて会話をうちきるようにマスクで口元を隠します。
わたしのお勤めの場所は保育園です。
といっても子どもを指導する先生ではありません。いわゆる給食のおばさんです。
月曜日から金曜日のあいだ、大鍋で山のような栄養たっぷりの給食を作るのです。
わたしの身長の半分ほどしかないこどもたちが、わたしたちの作ったごはんをもりもり嬉しそうに食べます。
ええ、もうこれ以上の快感はありません。
いっしょに畑やプランターで作った野菜や果物を収穫したりもします。


その日の夕方熟れすぎた野菜はないか園のプランターを見回りました。
するとこう君という延長保育をしている男の子がやってきました。こう君のママはいつも暗くなってから園で一番最後にこう君を迎えに来ます。とても忙しそうでそのせいかこう君は少しいつも寂しそうに見えました。
明日のお野菜とっているんだと、と話しかけると、いっしょにとっていい?と聞いてきました。わたしはもちろんといって手を差し出しました。

手をつないでふたりで食べごろのトマトを探していると真っ赤なトマトが発見されました。
こう君とってごらんと、わたしは言いました。こう君はちからいっぱいひねってもぎとろうとしました。
その時つかんでいた手に力が入り過ぎてトマトがぐしゃっとつぶれました。あーあ、穴あいちゃった。まずそうーとこう君が言いました。
「食べてごらん、美味しいから」
わたしはそう言いましたがこう君は疑わしそうにトマトを見ました。
こんな小さな子でも何でも見た目で判断するのだなあと思うとおかしくて、思わず口元がゆるみました。

いっしょに手洗い場にいって洗って、どろっとつぶれたひとつのトマトを分け合いその場でかじりつきました。その瞬間わたしもこう君もあふれ出た汁で顔中真っ赤でした。
「あははは。ふたりとも口が赤くなっちゃったね」
「顔見て。こんなに真っ赤だよぅ。あはは」
「まるで吸血鬼みたいだね。ようし、血を吸っておまえを食べちゃうぞー」
「ぼくだって吸血鬼だぞー。チュウチュウ」
わたしたちはおなかをかかえて笑い合いました。作り笑いではない真実の笑みで。
生きている喜びを隠そうとせず、保育園の園庭中に響き渡るような声でいつまでも。

わたしはやっぱりまだ、そしてこれからも流行りのルージュなんて必要ないのです。
今を力いっぱい生きているこどものほうが本当に美しいものを教えてくれますから。
わたしのなかにまた赤い思い出がひとつ鮮やかに加わりました。




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