34.森



 むかしむかし自然豊かな村のはずれに太一という猟師が住んでいた。
 はやくに父と母を亡くし、山のふもとにある森の小屋で捕らえた獣を売りながらひとりきりで暮らしていた。
 夏も終わりに近づき、激しく蝉のなく声もしだいに小さくなった季節の頃だった。
 いつものように山で狩をした。その日の獲物は狐一匹で、それを袋に入れて夕暮れの山道を急いでいると、なにかがどさっと落ちてくる音を聞いた。
 音のしたほうへ行くと、若く美しい娘が倒れていた。
 ひょいと上のほうを見上げると細く曲がりくねった山道が見えた。きっとあそこから足を踏み外して落ちてしまったのだろう。住まいの小屋に抱えていき介抱しているとあっという間に夜になり、そのまま布団で静かに寝かせることにした。
 
 女は次の日の朝、太一より早く太陽とともに目覚めた。
 白い雪のような肌に黒々とした長い髪と黒曜石のような瞳を持ったたいそう美しいおなごだった。
「どこもたいして怪我がなくてよかった。あんたのような娘がなぜ山にいたんだ。ここは危ない土地だ」
「助けていただいてありがとうございました。道ならぬ険しい場所を歩いていたことは覚えているのですが、それ以上のことは霧がかかったように、わからないのです。わたしは誰で、何をしていたのでしょう。何かとてもほしいものがあったはずなのに……」
「うむ、落ちた衝撃で記憶を失ってしまったのか。かわいい娘が帰らないと、きっと家族も心配していることだろう。それにしても自分の名前さえも覚えていないとはかわいそうに。そうだ。雪。あんたは雪のように白い肌をしているからそう呼ぼう」
「ありがとうございます。でも、名よりもなにかとても大事なものを忘れているような気がして、こわいのです」
「そうか、あせらなくてもいい。養生して、あつい汁でも飲んで力をつけろ」
 雪は太一のために食事を作ったり、そうじをしたり、家のさまざまなことを手伝った。そばにいるだけで太一の心を明るくしてくれた。
 太一はこの娘にずっといてほしい、妻になってほしいと思うようになった。それで、雪にたずねてみた。自分の妻になってくれるかと。雪はしばらくうつむいて考えていましたが、「はい」ととてもうれしそうに返事をしたので、ふたりは夫婦になった。
 ふたりは穏やかな毎日を過ごし、なんの不満もなかった。太一はそれがなぜか気になってかえって恐怖を感じていた。いつかこの幸福が壊れ、何かとても恐ろしいことがおきるのではないかと。
 本当はいっそ、雪がずっと何も思い出さなければいいと思うことがたびたびあった。

 けれど太一の不安どおり、ささいなことがきっかけで、その日はまさしく来てしまうのだった。




 木枯らしの吹いてきた秋の日、雪は部屋のかたすみに用意された黒い毛皮の上着を見た。
「これは?」
「狩で射止めた熊の毛皮でつくった上着だ。冬になると寒さが厳しい。おまえが羽織るといいと思って、出したんだ」
 優しい微笑みをいつも絶やさなかった妻の顔は恐ろしいほど青白くなり、かたかたと全身がふるえていた。ああ。この毛色に覚えがある。匂いもわずかに残っている。懐かしい愛しさがこみ上げる。
「雪、どうした」
「わたし思い出しました」雪は呆けた顔で太一のほうを見てこたえた。
「雪? ……思い出したのか! それで様子がおかしかったんだな」
「思い出さないほうがよかったと思います。少なくともおまえさまにとっては。これでわたしの一生は終わりました」
「自分がどんな人間かわかったほうがいいに決まっている。そうだろう?」
 わけがわからない太一をしり目に菊はその問いには答えず、乾いた声でいった。
「……お願いです。人間をください」
「人間?」
「そうです、だれでもかまいません、人を殺してきてください。その亡骸をください」
「どうしたというのか。先ほどからおかしいぞ。そんなもの、あげるわけにはいかないだろう」
「そうですか。ならば……」
 雪が笑う。だが口元はつりあがり、目には憎しみの色が浮かんでいる。
 今まで見たことがない般若のようにぞっとする表情をしていた。
「ならば、おまえさまをもらいましょう」
 雪が昨日まで大根を切っておいしい料理を作ってくれた包丁で、太一を襲う。細腕で包丁を太一めがけて振り下ろした。
 ビュッと空を切る音が響いた。
 急所ははずれたが腕に刃がふれ、一筋の血が流れた。
 怪我した腕をもう片方の腕でかばいながら、叫んだ。
「なぜ、なぜだ、雪……!」
「おまえさまはわたしの夫を殺しました」
「何?」
「わたしの大切な家族を、たったひとつの弾で奪いました。わたしはあなたを殺すためにここまで来たのです」
「おまえの夫はわしだろう。それに、獣なら数え切れぬほど殺めてきたが、まだ人間を殺したことなどない!」
 雪はすべてを拒絶するように目をつむると首を左右に横にふった。
「覚えていませんか。あなたが撃った額に傷のある大熊を。この毛皮の熊ですよ」
「ああ、あの熊……覚えている。わしが今まで見てきた獣の中で一番大きい熊だった。そして手ごわいやつだった。ではまさか、あの熊がおまえの夫だったのか」
 こくりと小さく頷くが、その顔も表情はない。
「では、おまえも人の姿は化身で、熊なのか」
「いいえ、わたしはまことの人間です。ただし、人間に捨てられた人間です」
 太一はその言葉に息をのんだ。
「捨てられた……」
「わたしの本当の名は鶴といいます。鶴姫と呼ばれ以前は城で暮らしていました。母が死に、妾だった女が正妻となると、その人はなんとかわたしを追い出そうと必死でした。
城の近くの川で洪水がおきました。何度も繰り返し川は氾濫し、溺れ死んでゆくものも大勢いて近隣の民を苦しめた。陰陽師が高貴な美しい娘を生贄にすれば、川はもう荒ぶることはないだろう、そうお告げがあったといいました。その陰陽師は母から多額の金品を受けとり、通じ合った仲でしたが、誰もわたしのいうことに耳を傾けてはくれなかった。
 さるぐつわをされ、縄で手足をしばられ、籠で運ばれると山に置き去りにされました。
 夫がわたしを助けてくれました。はじめて出会った時、殺されるかと思いました。
 けれど、縄をかみ切ってくれ洞穴へ連れていき、とってきた魚や木の実を分けてくれました。わたしはその時、この優しい熊の妻になろう、一生添い遂げようと決めたのです。
 それなのに、わたしにとって何より大事な命をあなたが奪った。どれだけ獣のほうが慈しみの心を持っているか、知っていますか。
 いちど人間の世界から追い出された身、夫と山で隠者のように暮らしていれば何も望んでいなかったのに。どうして……。どうして殺してしまったのですか!」
「雪。いや、鶴。おまえにそんな過去があったとは……」
「銃声が近くで聞こえて見に行くと、おまえさまと夫が倒れているのが見えました。その時誓いました。必ず復讐すると」
「猟はわしの糧、そして熊は山の宝だ。食料になり、爪も皮も毛も売れる。それをやめるのはできなかった」
 太一は鶴の話を聞きながら思案していた。怪我をしてもこの利き腕はまだ自在に動く。背後の壁にかけてある銃で鶴を殺せば、それでいい。鶴よりはやく動ける自信はある。だが雪と楽しく過ごした暮らしの日々が頭のなかをかけめぐり、身体を麻痺させる。心を迷わせる。 
 ゆらりと身体をふらつかせながら近づく鶴。先ほどついた血をたらしながら包丁が不気味に光る。
「わたしは本気です。おまえさまの命をもらいます」
 そのかたい決意ででこんどは太一がうすく笑った。もう争うことを終わらせたい。それでいい。妻が望んでいるならば、それをかなえてやりたい。
「いいよ、殺せ。おまえを殺すより、おまえに殺されたほうがましだ」
 太一はだらんと腕を下し、鶴を見据えた。
 ぶすり。鶴が無抵抗の太一の腹に包丁を刺した。
 太一はどさりと後ろに倒れた。見開いたままの瞳は最後まで愛しい女を見ていた。
 鶴は瞼をそっと指で下すと、夫の顔を抱きしめた。鶴は声もたてず涙を流し泣いていた。

「これでわたしの願いはかないました。けれど、いまやあなたもわたしの夫です。
だから、ひとりでは行かせませぬ。外に出てもっと見晴らしのよい場所に行きましょう。森に見守られながらともに眠るのです」

 鶴は夫の体を小屋の外まで運んだ。自分たちの身体が獣たちの食料として腹に満ち、骨も血も肉もすべてが土に帰るようにと願った。そして幼いころ父に教えられた切腹の仕方を思い描き、花のように散ろうと思った。自らの胸をはだけて着物の前をあけると一息で同じ刃を心臓に突き立てた。血はゆっくりと女の身体を伝いながら地面に落ち、曼珠沙華の花が咲いたような染みが広がった。美しい娘の身体は血にまみれてもやはり美しく、太一の亡骸の上に身を預けるように重なるとひとつの生き物のようになって倒れていた。




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