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36.毒


紅い毒を一口ふくめば、砂時計の砂も落ち終わらぬうちに身体をかけめぐり、命を枯らす。
苦いものはいやがる白雪姫のために、せめて甘い毒を煎じよう。
恨みたいなら恨めばいい。
生き地獄を味わった女は、もう何も恐れない。
なぜ自分の命が奪われたのか考えながら、あの世の果てで、わたしを憎み続けていなさい。


はじめて逢ったとき、おまえはわたしを見て、黙ってうつむいてしまったね。
きっと、母親とそっくりだという父の言葉を信じていたのに、一体どこが似ているのかと呆然としていたのだ。
この世にまったく同じ顔など、ありはしない。
似ていると言えば似ている、似ていないといえば、似ていない。
その程度のものだと思う。
人の容姿など、林檎の花の寿命よりも儚い。
だって考えてごらんなさい。
毎年かわらず可憐な白い花を咲かせる林檎の花と異なり、人間がもつ容姿の美とは若さゆえの一時的なものなのだから。

記憶のなかだけに住む思い出の人以上に美しい人は、けっして現れない。
その人を忘れないかぎりはね。

それに正直に言うと、わたしも、おまえから「お母さま」などと、よばれたくはない。
おまえはわたしの実の娘ではないから。
本当はおまえとて、わたしのことを母親と思っていないことは知っている。
お父さまの手前、王妃と仲良くしていると思ってほしい、安心させてあげたいの―――。
森からいらっしゃったお母さまは可哀そうな方だから、優しいお言葉をかけてあげたいの――。

わたしには、口にださずとも、心の声が聞こえるのだよ。
ああ、だけれども、おまえは本当に、いい子だね。


そう。おまえは悪くない。
そう思えば思うほど、わたしのなかに憎しみの炎が舞い上がる。
もっと、もっと激しく燃えろと、内なる誰かがわたしを煽り立てる。



王はわたしの幸せを奪った。
わたしが、病で亡くなったという前王妃に似ていたというだけで、無理やりに。
わたしの意思はないに等しかった。
森の奥でささやかな生活を営んでいた一家をばらばらにした。
今も目を閉じれば、無数の林檎の木に囲まれた我が家がありありと思いだせる。
それなのに、家のまわりにいるわたしの愛しい家族は誰一人笑っていないのだ。
みなうつろな顔をして、風にゆらされ落ちてしまった林檎のようにぐったり横たわっている…。


あれは、3年前のことだった。
王が馬車にのり家来をともなって、狩りにやってきた。
庭で服を干していたわたしの顔を見るなり、王は戦利品のようにわたしを連れ去ろうとした。
必死に抵抗していると、母がやってきた。
母は王を諌めようとしたが、話を聞くどころか、信じられないことに暴力をふるって木に縛り付けた。
幼い娘は家に隠れていたが、そのときこちらに向かってきてしまったのだ。
わたしの娘は兵士にかみついたが彼らは嘲け、娘を相手にしなかった。

そして、ようやく騒ぎを聞きつけて夫が帰ってきた。

武器を持たぬあの人を、兵士は王の命じるまま剣で刺しぬいた。
その日の朝まで冗談を言って笑っていた、血にまみれた夫の最後の姿。
思いだすだけで吐き気がする。
あんなに優しい人が、なぜあのような目にあわなければならなかったの。
このままでは母と娘まで殺される――そう直感したわたしは、あなたの望むようにしますからもうやめてと懇願した。
箱馬車に乗せられながら、泣き叫ぶ母と娘を見つめていた。
時期相応に市場に売り出される牝牛とは、きっとこのような気持ちなのだろうと思った。
街で売り買いされる牛たちは荷馬車に入る瞬間、悲しげな一声でいななく。
ただしあの悲劇的な状況で泣いているのはわたしではなく、母と娘だった。


ふたりは、いまでもあの森で暮らしているだろうか。
力ないこどもと年老いた女だけで暮らしていけるほど、森の暮らしは優しくはない。
初雪がふるときまでには大量のたきぎを用意しておかないと、凍え死んでしまう。
常に保存食を作っておかないと、畑の野菜や川の魚の取り具合は毎日まちまちなのでやっていけない。
せめて平和に暮らしていくことができる街に、住まいを見つけることができていればと願う。

漆黒の髪と白い膚の白雪姫とは真逆に、黄金(こがね)の髪をもっており、浅黒く日焼けしていて、
木々の木漏れ日をあびながら踊ることがすきだったミーナ。
踊るたびに華奢な身体が輝き、手をならしリズムをつけるやると、見事にぴったり音にあわせ新しいダンスを生み出した。
あの頃わたしたちの暮らしは光にみちていた。
わたしの娘はひとりだけ。ミーナ。
白雪姫とよばれ城に住む王の娘ではない。
ミーナには、わたしが家族を見捨てて逃げたように見えたに違いない。
わたしを恨んでいるだろうか。
できるものなら、身一つでこの城を抜け出し、成長したおまえを抱きしめてあげたい。
けれども、今わたしは囚人のように見張りに囲まれている。
おまえとふたたび相まみえることができるとき、おそらく命とひきかえになることだろう。

誰からも愛される白雪姫。
けれどわたしは、おまえも、王も、愛することができない。
王を愛することができないのは、今述べた理由に相違ない。
だが、おまえは王の血を継ぐ娘だから、同罪だ。
おまえが憎い。
おまえが憎い。
遠出をして城にいない王のことを考えると、よけいにおまえが憎くて仕方がない。


ねえ白雪姫。おまえがいなくなれば、王は嘆き悲しむだろうか。
それとも、あの残酷な男のこと。
葬儀中などでも、しめやかな儀式は気にくわぬと、幾度もこどものようにさわぐこともある。
かわりに宴会でもひらくのだろうか。
そうすれば、わたしのしたことは無意味だろう。
それでも、わたしはできうるかぎりのささやかな復讐をとげることをやめない。

肉親を、大切な人間を失う痛みを味あわせてやりたかった。
城での生きがいはそれだけだった。




おいで、白雪姫。

とっても美味しいものをあげよう。


届いたばかりの蜜のはいった林檎だよ。
わたしの故郷のあたりから取り寄せたの。

つやつやして美しいこと。
この実がいっとう赤くて美味しそうだね。
食べやすいように切ってあげよう。


さあお食べ――。


“ありがとう、お母さま”



姫が嬉しそうに林檎を口に入れた瞬間、周囲に静かなベールがかかり、すべての時をとめた。
3年前はじまった憎しみの炎も、白雪姫の笑顔も、王妃の飼っている駒鳥の羽ばたきも。


唯一、湖に石をなげたとき輪になって広がる波紋のように、お母さま、と、
白雪姫の愛らしい声が透明な孤を描きながら部屋のすみずみまで響いた。


お母さま、お母さま、お母さま………

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